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18 癒し主イエス様(イザヤ53:1〜6)

「心の門を開いて」

 人は誰でも、癒しを必要としています。誰でも心に傷を受けたことがあります。病にもなります。罪の痛みも感じています。ずっと心に痛みを抱えながら生きる人もいます。私たちは、癒し主イエス様から癒しを受けることができます。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 イザヤ書53章は、イエス様の苦難を預言したものと言われていますが、あわれみとご慈愛深い神様は、人を罪の悲惨な結果から救うために、イエス様をどうされたのですか。
・6節/
・Uコリント5:21,Tテモテ2:6/

2 人は罪責感のゆえに霊的な敗北感に苛まれています。罪責感のゆえに、自分は価値がないと思い、自分を責めたりします。心の病気にすらなります。イエス様が私たちの罪の身代わりとなって十字架にかかってくださいました。十字架刑の特徴は何ですか。それによってどのようにされたことが強調されていますか。
・5節/
・Tペテロ2:24/

3 人には、罪によって引き起こされたたましいの傷があります。イエス様は、私たちの深いたましいの傷を癒すために十字架にかかってくださいました。イエス様が与えてくださるいやしは、そのような霊的な癒しだけではありません。それは、どんなことですか。引用箇所も参照しましょう。それを知って、どう思いますか。
・4節/
・マタイ8:14〜17/

4 イエス様は、私たちの病気を負われただけでなく、病気から来る痛みも担われました。問題なのは、人が病気になる時、誰かのせいと考えることです。恨みつらみが生じて、心まで病んでしまいます。自分のせいと考えるなら、自分を痛めつけることになるでしょう。神様のせいと考えるなら、サタンの試みに陥ることになります。大事なことは、どうすることですか。
・マタイ9:20〜22/
・マルコ2:3/

5 私たちが考えるべきことは、イエス様なら癒してくださると信じて、イエス様に病気を持っていくのです。この単純な信仰がこの人を癒したとイエス様は言われました。もちろん、すべての病気が癒されるわけではありません。それでも、イエス様に病気を持って行くならどのようにされますか。パウロの例を参照しましょう。
・Uコリント12:7〜9/


6 人が病気になる時、他人は私の痛みや苦しみを知ってはくれないと思って、自分の内にこもってしまうことがあります。イエス様はどうですか。イエス様はまったく人と同じようになられたというのですから、病気も経験されたのでしょう。少なくとも、イエス様は人々の病気についてどうであると言えますか。それについて何を感じますか。
・3節/
・ヘブル4:15/

7 イエス様が与えてくださる癒しは、霊的な癒しと肉体的な癒しばかりではありません。この苦難のしもべの姿はどうですか。人々からどんな扱いを受けていましたか。イエス様は、世に来られて過ごされ、どのような精神的な傷を受けられましたか。
・1~3節/
・マタイ27:26〜31,39〜41/

8 イエス様は、世に来られて過ごされ、私たちの代わりに、このような精神的な傷を受けられました。ですから、私たちの精神的な傷を癒してくださいます。イエス様は、私たちの精神的な傷、感情的な傷をよくご存知です。イエス様は、自ら痛みを経験されたセラピストとして傷ついた人々に寄り添ってくださいます。これを知って、どう思いますか。



9 誰でも、精神的な傷を受けることがあります。その傷を適切に取り扱わないと、心の奥深くに残り、自分を蝕む毒になり、他人を攻撃する恐ろしい凶器になります。長い間にわたって自分を傷つけ、不幸な人生となってしまいます。イエス様は、人々から嘲られ、蔑まれても、どうしておられましたか。恨みや怒りをもっている人は、癒されていない人です。癒しを求めるには、どうしなければなりませんか。あなたは、どうしますか。
・Tペテロ2:21〜23/


「命の実を刈り取ろう」

 今日の箇所は、預言なのに過去の時制で記されています。これからどうなるか分からない未来のことではなく、すでに主が私たちの癒しを保障されているということです。その豊かな癒し、あふれる癒しを受ける権利がイエス様を信じた私たちにあります。癒し主イエス様に進むのであれば、イエス様に自分の傷を癒していただけます。受けた癒しや気付きを分かち合い、互いのために祈りましょう。イザヤ53:5。      

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