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19 苦難のしもべの姿(イザヤ53:7〜12)

「心の門を開いて」

 今日の所は、イエス様の受難の預言です。使徒8:27〜35で、エルサレムから帰る途中のエチオピアの高官が読んでいたイザヤ書の箇所です。私たちもここからイエス様について学び、その姿を私たちへの適用としましょう。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 使徒8:32〜33に引用されているのが、今日の7~8節です。イエス様の十字架の苦難がどんなことに例えられていますか。イエス様は、何と呼ばれていますか。
・使徒8:32〜33, 7〜8節/
・ヨハネ1:29,Tペテロ1:19/

2 「屠り場に引かれて行く羊」とイエス様の十字架の苦難が例えられています。イエス様は、犠牲の子羊と呼ばれています。犠牲、いけにえとは、人の身代わりに羊や牛などを屠ってささげたことです。なぜ、救い主イエス様が犠牲の子羊とされたのでしょうか。
・8,10,12節/
・Tヨハネ4:10/

3 神の御子であるイエス様が私たちの罪のために犠牲の子羊とされました。私たちを愛し哀れんでくださった神様は、罪のないご自分の御子イエス様に罪を負わせました。イエス様が苦しみを受けた時、その姿にどんな特徴がありますか。実際の姿も、確認してみましょう。どんな場面で黙っておられましたか。
・7,9節/
・マタイ27:12~14,ルカ23:9,36~39/

4 イエス様は口下手なのではなく、抗弁できなかったわけでもありません。話したくなかったのでもありません。イエス様は、裁判でまったく口を開かなかったのですか。十字架上で何も話されなかったのですか。それは、沈黙とどう関係していると思いますか。
・ルカ23:34,43,/
・ルカ23:3/

5 イエス様は、話はできても、訴えや偽証に対しては抗弁しなかったということです。イエス様が黙っていたのは、人々の罪を背負うために十字架にかからなければならなかったからです。それは、私たちのために口を開かなかった、沈黙されたということが分かります。私たちはどうでしょうか。沈黙すべき場面でも、黙っていられなかったでしょうか。厳しく言われて文句を言い、恨みごとを言ってしまいましたか。謝ることもしないで言い訳に終始してしまったことはないでしょうか。分かち合いましょう。




6 他人に言ってやりたい、言わずにはいられないという時があるでしょう。でも、言わなくても済むことがほとんどです。自分の沽券に関わるとか、自分の肉のプライドが許さないと言うならば、言わなくていいのです。では、どうしても必要なときには、どのように言えばいいでしょうか。
・エペソ4:29/
・箴言15:23/

7 もう一つ、この苦難のしもべのイエス様に特徴的な姿があります。それは、苦難を受けた時のイエス様の対応です。イエス様に人々の罪を負わせて、十字架に渡すのは、神様のみこころでした。それに対して、イエス様はどう対処しておられましたか。
・10〜12節/
・ピリピ2:6〜8/

8 イエス様は、自分から人々の罪を背負い、裁きを担っておられました。ご自分の身をもって人々を救うという使命に従順だったからです。神様に忠実であり、私たちを愛されたからです。苦難のしもべは、従順の結果どんな祝福を受けましたか。十字架の死にまで従順であったイエス様は、どのようにされましたか。
・10,12節/
・ピリピ2:9〜11/

9 イエス様は、どのようにして従順を学んだと証ししておられますか。私たちも、御言葉に聞き従うことや神様の御心に従順になることが求められています。従うか否かは、私たち次第です。私たちが神様に対して従順を選択するなら、神様が働いてくださり、祝福も与えてくださるでしょう。イエス様の従順の姿から、何を学びましたか。気付きや導きを受けましたか。
・ヘブル5:8/
・ピリピ2:7〜8/

「命の実を刈り取ろう」

 従順というと、イメージはどうですか。主体性がない、受身的、自分の意志がないなどマイナスイメージでしょうか。イエス様の見せる姿は、そうではありません。救い主としての献身であり、人々を救いたいという情熱であり、ビジョンからだったのです。私たちも、従順を考える時、そうありたいと願います。私たちが神様に対して従順を選択するなら、神様が働いてくださり、祝福も与えてくださいます。イエス様の沈黙と従順の姿から学んで、信仰の道を歩みたく願います。互いのために祈りましょう。ピリピ2:6〜8。

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