小グループで聖書を学ぶ
5 キリストの苦しみの欠けたところ(コロサイ1:24

「心の門を開いて」

 賛美歌321番に「来たれ、来たれ、苦しみ」という歌詞があり、こんな賛美歌歌いたくないと誤解する人がいます。人は誰でも苦しみたくないし、苦しみは避けて通りたいからです。今日の箇所でも、キリストの贖罪の苦しみが不十分で、聖徒たちの苦しみがそれを補充すると誤解する人がいます。しかし、よく学べば、苦しみの理解が変わります。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 24節の「キリストの苦しみの欠けたところを満たしている」ということから、イエス様の救いのための苦しみが残っていて、聖徒たちの苦しみを通して満たされると主張する人々がいます。もちろん、聖書はそんなことは教えていません。イエス様の救いについて何と教えていますか。
・24節b, 20節/
・ヨハネ19:30, ヘブル10:10/

2 イエス様が一度十字架に犠牲になられたことで、救いは確実になされました。イエス様の十字架の苦しみによって、信じる者の罪が赦され、新しい命と天国への望みが与えられています。人は誰でも苦しみたくない、できれば避けて通りたいです。イエス様を信じているのに、どうして苦しみがあるのか、聖書は何と教えていますか。
・ピリピ1:29/
・使徒14:22/

3 私たちがこの世の中でクリスチャンとして信仰で生きていく時、キリストのための苦しみをするようになります。私たちが苦しむ時、どんなことを思う必要がありますか。
・マタイ16:24/
・ヨハネ16:33/

4 なぜ聖徒の苦しみがキリストの苦しみの欠けたところを満たすと言うのでしょうか。パウロは、その後に、「キリストのからだとは、教会のことです」と言っています。18節やパウロのダマスコ途上での事件を参照してみましょう。
・24節c,18節/
・使徒9:4~5/

5 パウロは、教会を迫害して、クリスチャンを苦しめたのですが、教会はイエス様と一緒につながっているので、イエス様を迫害したことになりました。キリストのからだなる教会のための苦しみは、キリストのための苦しみとなります。苦しみだけでなく、他にどんなことを与えてくれますか。
・Uコリント1:5/
・ローマ8:17/

6 教会のための苦しみ、人々のための苦しみなら、それはキリストの苦しみの欠けたところを満たしていることになります。イエス様と一緒だという思いが、私たちに平安を与えます。イエス様と一緒に苦しむなら、慰めも与えられます。この苦しみを介してのキリストとの一体性の境地をどう感じますか。



7 教会は、神がご自身の血をもって買い取られたものです。神の恵みを覚える人は、教会を愛して、人々に仕え、その恵みに応えようとします。パウロは、コロサイ教会のための労苦を何と言っていますか。獄中に閉じ込められていて、教会のための苦しみを経験しているのに、なぜ、そんなことが言えるのですか。
・24節a /
・Uコリント7:4/

8 パウロは、教会のために労苦することでイエス様のための苦しみを満たしていること感じて、喜びました。私たちにも、定められたイエス様のための苦しみがあります。それで、私たちは、主を喜ばせることができます。それは大変だ、絶えられない苦しみならどうするのかと思うでしょう。それについて、聖書は何と言っていますか。
・Tコリント10:13/


9 賛美歌321番(3)「来たれ、来たれ、苦しみ、憂き悩みも、厭わじ、勇み歌わん、主を愛する」は、作詩者が病床にある時に書かれたものです。エリザベス・ペイソンは、体が弱く、生涯病弱で、痛みのない瞬間をほとんど知りませんでしたが、生涯教会のために働きました。「今、神のために生きることは、能力が役立つかどうかに関係なく、素晴らしいことであり、神を賛美できるなら、苦しむことさえ許されることは素晴らしい慈悲であることが分かります」と書き残しています。これを知って、どんなことを思いましたか。


「命の実を刈り取ろう」

 私たちも主のための苦しみを担当します。一日一日、クリスチャンとして生きながら経験する苦しみを誠実に担当します。これがキリストの苦しみの欠けたところを私たちの身をもって満たすことになります。私たちの人生の苦しみにおいて、イエス様と深く一つになる喜びが豊かになることを求めます。私たちが、苦しみを通して、福音の恵みの真髄を体験して生きて行く一人ひとりとなることを願います。今日の学びを通して気付かされたこと導かれたことを分かち合い、互いのために祈りましょう。ローマ8:17~18。

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