小グループで聖書を学ぶ
10 かしらなるキリストに結びつく(コロサイ2:16〜23)

「心の門を開いて」

 新しい歩みを始める時、誘惑や惑わしがあります。信仰生活を始めたばかりのコロサイの聖徒たちも、惑わされ、騙されて、心が揺れ動いていました。信仰が歪められ、違ったものになりかねません。私たちは、どういうことに注意すればいいのでしょうか。今日の箇所から学びましょう。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 コロサイの町にも大勢のユダヤ人たちが住んでおり、ユダヤ人たちは、自分たちの伝統を重んじ、律法を守っていることを誇りとしていました。そのために、聖徒たちにもそうするように要求していました。聖徒たちを惑わしていた1つ目は、どんなことですか。それに対して、パウロは、何と言っていますか。
・16節/


2 聖徒たちは、律法主義の人々と比べて、自分の信仰はだめだなと不安を覚えたのでしょう。そして、律法とか戒律を守ることで信仰が深まる、信仰者らしくなると思ってしまったようです。人と比べたりすると、そんな惑わしに陥る危険があります。パウロは、ユダヤ人のようにしていないことで、「誰にも批評させてはならない」と強く警告していますが、その理由は、何ですか。その例えは、どういうことを意味しているのですか。
・17節/
・ガラテヤ3:1〜2/

3 旧約の律法や儀式は、新約の象徴に過ぎません。影なのです。その実体はイエス・キリストにあります。いくつか取り上げてみましょう。出エジプトの「過越」で、犠牲の子羊の血が裁きを過ぎ越させたように、イエス様の十字架の血が人々の罪の代償となり、死から永遠のいのちに過ぎ越される恵みをいただきました。イザヤ書の「苦難のしもべ」の姿は、イエス様の苦しみと十字架の死を意味します。また、闇を照らす光として来られるメシアが「みどり子」として来られるという預言は、イエス様が救い主として誕生されたことで成就しました。このようなことをどう思いますか。
・出エジプト12:3〜8,Tペテロ1:18〜19/
・イザヤ53:3〜8, Tコリント9:1〜6/

4 2つ目は、「自己卑下とか御使い礼拝とかをする」といううわべのこと、形式主義からの惑わしです。このように惑わす人々について、イエス様は何と言われましたか。
・マタイ6:1〜8/

5 うわべの敬虔主義や神秘主義に惑わされるのは、私たち自身にも、熱心な人に思われたい、敬虔そうに見られたいという高慢の罪があるからです。人から認められたいという承認欲求があるからです。思い当たることはありますか。



6 自己卑下して御使い礼拝をしていた人々は、うわべだけ敬虔そうにして、肉の思いで誇って、そうしていない人々を見下していました。イエス様が警告されたあのパリサイ人の姿です。高慢な彼らには大事なことが欠けていました。それは、どんなことですか。
・19節/


7 コロサイの地は、ギリシャ文化の影響が大きい所です。ギリシャ哲学では、肉体(物質的世界)と魂(精神世界)の二元論的な人間論が信じられており、禁欲を理想的な人格形成に至るための徳の訓練として捉えていたようです。聖徒たちを縛ろうとしていた三つ目は何ですか。それは、人の罪や肉の欲を制することができたのですか。
・21節/
・23節,/

8 日本の文化や習慣の中にも、「すがるな。味わうな。さわるな」というものがあって、私たちを縛ろうとします。ここではこれをしなければならない、みんなもやっていることだと強要されるともあります。惑わされないで、御言葉の知恵をもって対処したいと思います。たとえば、どんなことがありましたか。その時、どうしましたか。



9 聖徒たちは、何かを禁じることがいかにも敬虔そうだと勘違いしたり、そうしないと信仰的じゃないと思って、縛られてしまいました。ですから、パウロは、聖徒たちがどういう者であることを思い出させていますか。それは、どんな導きを与えてくれますか。
・20節/

「命の実を刈り取ろう」

 今日の箇所に出てきた三つのことの決定的な弱点は、肉のほしいままの欲望に対しては、罪の赦しに何のききめもないということす。ですから、イエス様が私たちの罪のために十字架にかかってくださったのです。罪と欲に縛られた古い自分は主の十字架ととともに死んだのです。罪ゆるされて解放されているのです。ここに、キリスト者の自由があります。
 救われた人が、十字架の死からよみがえられたイエス様と結びつくことによって、生まれ変わった新しい人として生きて、成長して造り変えられるのです。イエス様のいない救い、イエス様のいない信仰はありません。かしらなるイエス様に結びついて生きる者となることを願います。ヘブル12:2 。学びを通して与えられた気付きや導きを分かち合い、祈りましょう。

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