小グループで聖書を学ぶ

8 キリストに根ざして(コロサイ2:6〜7)

「心の門を開いて」

 「初心忘るべからず」とは、能の大成者世阿弥の花鏡に出てくる言葉です。はじめの志を忘れてはいけないという意味で使われていますが、世阿弥は、若い時の初心、人生の時々の初心、そして老後の初心を忘れてはならないと言い、いつでも、未熟さ、つたなさがあることをわきまえて向上を目指すべしと説いています。心揺れ動いていた聖徒たちは、救われた初心を忘れて、信仰の向上心を失っていたのです。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 心が揺れ動いていた聖徒たちは、何を忘れていたのですか。使徒パウロは、聖徒たちにどんなことを思い出してもらいたいのですか。
・6節/
・ローマ3:24,10:9/

2 主キリスト・イエスを受け入れたのですからと言って、救われた初心を忘れていたことを聖徒たちに、思い出させています。イエス様を「主」と受け入れた人は、自分をどういう立場としているのですか。「彼にあって歩みなさい」とは、どのように生きることですか。
・マタイ24:45/
・コロサイ1:10,Tヨハネ2:6/

3 私たちがイエス様を主として迎えたのなら、イエス様を受け入れたことで終了したのではなく、イエス様中心に人生を生きて行くことです。生き方、価値観が変わりました。自分の意のままに生きるのではなく、主の御心の通りに生きるということです。そのような初心を思い出して、思うことは何ですか。
・ローマ12:2/(参考)
・黙示録2:4〜5/(参考)

4 イエス様を受け入れて、キリストにあって歩む者の生活は、どんな特徴がありますか。自然界のものに例えられていることから考えてみましょう。
・7節前半/
・マルコ4:6,17/

5 根の役目は、木を倒れないようにすることと水や栄養を吸収することです。信仰に生きる人は、御言葉から栄養を吸収して、聖霊の泉から命の水を供給されて、人生を歩むことができます。しかし、お金や肉の思いを満足させることに根を下ろせば、事件や経済破綻が起こり、倒れてしまいます。どこに根を下ろすかによって、人生が変わります。果たして私たちはどこに根を下ろしているのでしょうか。点検してみましょう。



6 「キリストに根ざす」という言葉は、完了形が用いられています。これは、イエス様を信じたことで、すでにキリストに根を出したということです。しかし、深く根を張らなければ、嵐に会って倒れたり、乾燥して枯れたりします。これは、私たちの人生についてどういうことを示しているのですか。
・Tペテロ2:2/
・ヘブル6:1〜2/

7 「また建てられ」というのは、基礎の上に建物を建てることを例えたものです。私たちの生活がイエス・キリストという土台に堅固に立てられなければ、簡単に揺り動かされ、倒されてしまいます。思い当たるようなことがありますか。どんなものを土台にしましたか。
・Tコリント3:11/
・マタイ7:24〜27/

8 キリストに根ざして、建てられた人は、どのようになれると言っていますか。パウロは、この手紙を獄中で書いており、受けとった聖徒たちは心揺れ動かされていました。どうしてそんなことができると思いますか。
・7節/
・マタイ5:12,ピリピ4:6〜7/

9 私たちの生活は、痛みや苦しみが多いかもしれません。常に問題や試みも訪れます。生活から苦しみや痛みがまったく離れるということはありません。パウロは、自分が苦しみに会ったのは、どうなるためだったと証ししていますか。
・Uコリント1:8〜9/

「命の実を刈り取ろう」

 あふれるばかりに感謝する人になるためには、私たちの思考を変えなければなりません。私たちは神様の恵みと祝福を喜び、楽しいことはすべて当然のこととしていながら、難しく辛いことばかりを握り、自分が世界で最も不幸で痛んでいるかのように考えます。しかし、苦難や痛みだけ見ないで、問題や試みばかりを数えないで、与えられた守りと導きを見て、主の恵みと祝福を数えるのです。感謝は、環境の問題ではなく、信仰の問題です。
 イエス・キリストを主と告白して、イエス様に根ざした者は、イエス様に確かな基礎を置いて成長し続けなければなりません。イエス様を受け入れ、信仰を告白したにとどまり、真理を学ぶことなく、イエス様に根ざさないのは、資格だけ取って用いない人と同じです。残念、勿体無いことです。適用を分かち合い、互いのために祈りましょう。

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