小グループで聖書を学ぶ
20 主にあって受けた務め(コロサイ4:15〜18)

「心の門を開いて」

 人は自分で人生を生きていると思っています。ところが、聖書を学ぶと、私たちは神に生かされている存在であることに気付かされます。家庭や社会で神からの務めを与えられ、用いられて行く者なのだと分かるのです。言わば、神様が用意された舞台で、それぞれの与えられた務めを果たして行くのです。登場人物から学びます。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 コロサイの隣のラオデキヤにあった「ヌンパとその家にある教会」によろしくと挨拶が記されています。ヌンパという人の家庭が家の教会として用いられていました。どんな家庭、家族であったと想像することができますか。
・15節/
・使徒12:12,16:34,Tコリント16:15,19/(参考)

2 家庭が教会の始まりであった、家庭が教会の核であるというのは、重要なことです。ヌンパの家庭は、家族総出で、それぞれ与えられた務めを担い、教会として用いられたことでしょう。現代社会は、家庭、家族の形態が崩れている時代です。聖書は、家庭形成には何が必要だと教えていますか。
・使徒10:1〜2/
・伝道者の書4:12/

3 夫婦が争い、家庭が崩れているのは、人の罪によるものです。イエス・キリストが救い主として十字架にかかられたのは、神がご計画をもって人を創造し、家庭を与えてくださったことを忘れて、罪によって苦しんでいる人々を哀れんでくださったからです。夫婦、家庭の再建が始まるためには、どんなことが必要ですか。
・使徒16:31/
・ガラテヤ6:10,Tテモテ5:8/

4 次の節を見ると、アルキポという人に、「務めを注意してよく果たすように」と言っています。エパフラスがローマに行った後、コロサイ教会の牧会の務めをしていたようです。そのために、どうしていたと考えられますか。あなたの仕事はどうですか。
・17節, ピレモン1:2/
・コロサイ4:12〜13/

5 労苦の多い務めをなぜしていたのですか。17節の務めには、どんな説明がついていますか。苦労の多い務めをすることができたのはなぜですか。どんな仕事観ですか。
・17節/
・Uテサロニケ1:11, 出エジプト3:10〜12/(参考)

6 一般に社会では、自分のやりたい仕事をするのが理想です。それができれば幸福だという価値観です。しかし、聖書に出てくる信仰の先輩たちは誰一人として、そのような人はいません。今自分がしている仕事や働きについて、主の召しを考えてみましょう。主はここで私に何をさせようとしておられるのか、この仕事に私を召した主の御旨はどこにあるのだろうかと祈ってみましょう。気付かされたことや導きを分かち合ってください。



7 パウロの最後の挨拶は、挨拶以上のものです。この挨拶は「パウロが自筆で」と記されています。目の悪かったパウロの手紙の多くは、代筆で書かれていますが、コロサイ書でこの節だけは自筆で書いたというのです。この節だけ、震えたような大きな字で目立っていたでしょう。その理由は何ですか。どんな気持ちが込められていますか。
・18節/
・Uテモテ2:9/

8 自分の人生のビジョンを明確に持っている人は、環境の変化が自分の働きを妨げるとは思いません。ですから、パウロは獄中にあっても、主から委ねられた務めを放棄しないで、果たして来たと言うのです。人生の苦難の中にある聖徒たちに、苦難の中でも主の働きは進み、主から受けた務めを行うことができると励ましているのです。問題があっても、妨げがあっても、務めを果たすことができた例があったら、お証しください。



9 誰にでも共通して与えられている主からの務めは、主の栄光をあらわすことです。家庭でも職場でも学校でも、自分が信仰に生きることで主の栄光をあらわすことができます。パウロの人生は、主に栄光を帰して、主の栄光をあらわしながら生きた人生と言えるでしょう。地上の生涯を終えようとしたパウロが証ししている言葉を目にして、どんなことを感じますか。あなたは、どうしますか。
・Uテモテ4:6〜8/
・使徒20:24/

「命の実を刈り取ろう」

 私たちも、主から受けた務めを果たして、人生の走るべき道のりを走り終え、天国へ入れていただく時には、「よくやった良い忠実なしもべだ」と言っていただけるようになりたいと願います。最後まで信仰を守り通した者には、神からの義の栄冠が用意されていると言っています。手紙の締めくくりの言葉は、「どうか、恵みがあなたがたとともにありますように」でした。主から受けた務めを果たして生きるならば、神の恵みが私たちの上にもあるでしょう。きょうの学びを通して気付かされたこと導かれたことを分かち合い、祈りましょう。

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