小グループで聖書を学ぶ
1 復活の主と共に歩む人生(ルカ24:13〜35)

「心の門を開いて」

 よく地方へ転勤や転居をすることを都落ちと言いますが、元々源平の戦いで負けた平家が、京から落ち延びて行く故事から来た言葉です。ですから、都落ちには、夢破れて、都にいられなくなって逃げ出すという意味があります。エルサレムから都落ちする弟子の姿から、私たちへのメッセージを学びます。


「御言葉の種を蒔きながら」

1 「ちょうどこの日」とは、イエス様がよみがえられたイースターの日ということです。その日の夕方、2人の弟子がエルサレムからエマオ村へ行く姿が記されています。彼らの様子は、どうですか。その様子は、彼らの心境がどうであることを示していますか。
・13〜17節/


2 夕日に向かって下って行く姿や暗い顔つきは、2人の失意や悲しみに満ちた心をあらわしているようです。イエス様が彼らと共に歩んでおられても、イエス様だとは分からないくらいでした。どうして、この2人は、これほど失意と悲しみに沈んで都落ちしていたのでしょうか。彼らが話していた内容から調べましょう。
・18〜24節/


3 イエス様に期待して、自分たちの望みをかけていました。しかし、そのイエス様が十字架で殺されてしまったのです。失意と落胆のために、復活のニュースを信じることができず、深い憂いと悲しみにおおわれていました。私たちも、人生という旅において、そんな心境になる時があります。それは、どんな時でしたか。



4 彼らの話を聞かれたイエス様は、彼らの事を何と言われましたか。イエス様がイスラエルを贖ってくださるはずだと望みをかけていたはずなのに、なぜ彼らは復活のニュースを聞いても、受け入れることができなかったのですか。深い憂いと悲しみ、失意は、人の心と体にどんな影響を及ぼすからですか。
・25〜26節/
・箴言15:13,17:22/

5 失意の弟子たちには、何の話かと聞くイエス様に「あなただけが知らなかったのですか」という怒りさえあらわれています。人の憂いの根底には、怒りと悲しみがあると言われます。そのような弟子たちに対して、イエス様はどうしてくださいましたか。それに対して、彼らはどうしましたか。そこから、私たち自身についても、どうしてくださると信じることができますか。
・15,17,19節/
・ヨナ2:2,詩篇55:17 /(参考)

6 話を聞いてもらうことは、憂いと悲しみのある人の心を癒してくれる重要な手段となります。誰かが自分のことを心配して、話を聞いてくれるということは、心が軽くなって、問題がほぐれ始めます。弟子たちが疑ったり、信じられなかった部分については、イエス様はどのようにしてくださいましたか。思い違いが明らかにされ、聖書のメッセージが分かって来た彼らは、イエス様にどうするように頼みましたか。
・27節/
・28〜29節/

7 心がわくわくして来て、聖書の勉強が面白くてしょうがない、もっと聞きたいという思いが、イエス様を引きとめました。宿でパンを割くイエス様を見ながら、弟子たちは目が開かれ、イエス様だと分かりました。この時、彼らの心が変化していたことが、どのように表現されていますか。それまでの彼らの心境と比べてみて、どう思いますか。
・30〜32節/
・17節/

8 イエス様に祈り、交わりをするなら、心が癒されて来ます。御言葉を通して自分への語りかけを聞くなら、心が燃えて来ます。信仰が生きるようになるからです。復活のイエス様に出会い、共に歩み、心が燃された彼らは、どうするようになりましたか。それまでの彼らの行動と比べて、どうですか。
・33〜35節/
・13節/

9 復活のイエス様が共に歩んでくださっていても、エルサレムから下る時の弟子たちのように、それが分からないのであれば、同行していないと同じです。失意と悲しみはそのままです。どうすれば、イエス様と確かな人生の旅を共にできるようになるのでしょうか。何に気付き、どうすることが必要ですか。
・ヨハネ14:16〜17/
・マタイ11:28〜29/

「命の実を刈り取ろう」

 人生の情熱を失い、憂いや悲しみの中に心沈んでいませんか。今自分の隣に、復活のイエス様がおられるのに気付いてください。復活のイエス様と共に歩んでおられることを覚えてください。人生の旅路をイエス様と同行二人で歩みましょう。学びを通して与えられ気付きや適用を分かち合ってください。マタイ11:28〜29。

戻る