小グループで聖書を学ぶ

赦しなさい(ルカ6:37〜42)

「心の門を開いて」

イエス様の教えが続きます。
今日の本文では「赦しなさい」というイエス様の命令を考えてみましょう。私たちはイエス・キリストの血潮によって救われて、主にあって兄弟姉妹となりました。私たちは神の家族です。今日の箇所は特に「兄弟に対して」と焦点をあわせています。

「御言葉の種を蒔きながら」

1. イエス様は「さばいてはいけません。人を不義に定めてはいけません。」と言われました。さばくとは、自分の基準で他人を判断することです。不義に定める事は、批判する意味が含まれています。イエス様が命令した理由は何でしょうか。
・37節 /

2. イエス様は「赦しなさい」と命令なさいました。「赦し」は「ある義務から解放や自由になれる」という意味を持っています。イエス様が教えてくださった「主の祈り」にも、赦しのために祈る内容が書かれています。私たちは赦し合う共同体です。なぜそのように言えるのでしょうか。
・コロサイ3:13 /

3. またイエス様は「与えなさい」と言われました。与えることで結果どうなると教えていますか。また、このみことばに従った結果、受けた恵みがあれば分かち合ってみましょう。
・38節/


4. 私が与える事ができるのは神からただでいただいたからです。これは物だけではなく、いろいろな賜物も分かち合うことを意味します。イエス様は「受けるよりも与えるほうが幸いである」と言われましたが、その意味を考えてみましょう。私たちが与えることが出来るものに、何があると思われますか。
・マタイ10:8 /
・使徒20:35 /


5. 盲人が盲人を案内する事は、とてもあぶない状況です。特に、転がり落ちやすい穴の多い地形のイスラエルでは言うまでもありません。盲人は肉の目だけではなく、霊的な目のことも指しています。霊的な盲人は、人々を間違った方向に導きます。どんな人が霊的な盲人であると考えますか。
・39節 /
・マタイ23:26 /

6. イエス様は「十分に訓練を受ける」と「自分の師のようになる」と言われました。ここでの「訓練」は「修理する、回復する」という意味です。同じ言葉がガラテヤ6:1で「正しい状態に回復する」という意味で使われています。御言葉の教えにより悔い改めて、正しい道に立ち返った人、つまり御言葉に生きる訓練によってイエス様に似た者となって行きます。今まで受けた御言葉に生きる訓練で思い浮かぶ事があれば、分かち合ってみましょう。
・40節/


7. ちりと梁の表現は、ことわざです。「目くそ鼻くそを笑う」と同じ意味だと言えます。目に梁がある人は、自分の欠点に気づかない人を指す皮肉な表現です。ちりと梁は具体的に何だと思いますか。
・41節 /

8. 自分の梁が見えないのに、兄弟の欠点を指摘して、それを正しく直そうとしている人を「偽善者」だと言っています。偽善者は演じる者で、本当の自分を知っていない人です。まず、自分の目から梁を取り除くためには、どうすれば良いと思いますか。
・42節 /
・ローマ3:10,23 /

「命の実を刈り取ろう」

 主にあって兄弟となった私たちにイエス様は赦し合い、与え合うことを命じています。私たちは父なる神様に続けて赦され、与えられています。無限にあわれみを受けている私たちは、まず自分の梁に気づく事が必要です。これからもみことばに生きる訓練を通して互いに赦し合い、愛し合い、分け与える者へと成長していくことを願います。私たちは赦し合う神の家族です。ルカ6:37。

戻る