小グループで聖書を学ぶ

日々自分の十字架を負う(ルカ9:18〜27)

「心の門を開いて」
今日の箇所には、ペテロの信仰告白が記されています。この信仰告白は教会の基礎となり、この時からイエス様は弟子たちに十字架のことを教え始めました。ここでの信仰告白は重要な出来事となりました。また、弟子の信仰告白と同様に重要なのは弟子たちの生き方です。今日は弟子たちの信仰告白とその生き方について学びましょう。

「御言葉の種を蒔きながら」
1. イエス様は神様と深い交わりを持つために、よく一人で祈っておられました。祈りは、是非とも答えていただけるようにとの願いがあります。また、神を賛美し、感謝を捧げ、悔い改めて神のみこころを聞くことができます。これが豊かな祈りへと繋がります。私たちの祈りの生活はどうなのか考えてみましょう。
・18節 /
・マルコ1:35 /

2. イエス様は弟子たちに「わたしのことを誰だと言っていますか。」と尋ねられました。群衆は、イエス様について誰だと考えていましたか。また、ペテロはその質問に何と答えましたか。
・19、20節 /

3. イエス様が弟子たちに質問をした場所は「ピリポ・カイサリア」でした。この町は、非常に派手で華やかな雰囲気が漂っていて、様々な偶像礼拝や皇帝礼拝が行われていました。田舎から訪れた弟子たち、特にペテロはイエス様こそが私たちを救ってくださる真の神であると告白しました。この場面を見ながら感じることを分かち合ってみましょう。
・箴言14:12 /

4. イエス様はペテロの信仰告白を聞いてその信仰告白の上にイエス様の教会が建てられると褒めてくださいました。しかし、このことを誰にも話さないように命じられました。なぜでしょうか。
・21節 /
・ヨハネ6:15 /

5. イエス様がこの世に来られたのは、ローマの支配からユダの国を解放してくれるのではなく、人を罪から解放し、永遠のいのちを与えるその道を、人に教えるためでした。私たちの罪のためにイエス様はこれからどうなると教えていますか。
・22節 /

6. 弟子とはイエス様に従う者です。主の弟子であるなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負っていく覚悟が必要です。自分の人生の目的は神中心です。それは、自分が主体ではなく中心でもないという意味です。人々から認められなくても、受け入れられなくても、もう一度立ち上がり、主の御心に従っていく生き方を意味します。私たちの心の中心は誰なのか吟味してみましょう。
・23節 /

7. 自分の十字架を負い、イエス様に従うことは、キリストに仕えるために受け入れなければならない苦しみを指します。主の弟子たちは時折、キリストのために苦しみ、迫害を受けます。あなたにとって自分の十字架は何だと思いますか。

8. 「イエス様のためにいのちを失う者」とは、置かれている場所で、イエス様のために御言葉に従って歩もうとする人です。信仰に生きる人です。イエス様に従っていく真の弟子です。このような人々は神の国を見ることができます。イエス様はご自身が歩んだ道を弟子たちも歩むように望んでおられます。しばらく今の歩みを振り返る時間を持ちましょう。命と時間を誰のためにどう使いますか。
・27節 /

「命の実を刈り取ろう」
自分を捨て、日々自分の十字架を負って、イエス様に従って行くことは、気楽なことではありません。涙を流す時もあります。毎日戦いでありますが、日々自分の十字架を負って、イエス様に従っていく者には神の大きな慰めと祝福が約束されています。イエス様に付いて行きましょう。イエス様に、「あなたは生ける神の子キリストです」(マタイ16:16)と告白できるように、そして私たちみんながどんな時でもイエス様についていく主の弟子になるように切に願います。

ルカ9:23

戻る