小グループで聖書を学ぶ
1 荒野から始まる福音(マルコ1:1〜8)

「心の門を開いて」

 断捨離という言葉があります。それは、「必要のないものを断ち、捨てて、執着することから離れる」という意味をあらわす整理法の一つです。そういうことを実践することで、生活スタイルや生き方まで影響があるそうです。今日の聖書の箇所にも、断捨離のような人物が登場して来ます。信仰者の姿をそこから学びます。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 マルコによる福音書の原文は、「アルケー、はじめ」という言葉が最初に記されています。イエス・キリストの福音のはじめという書き出しです。福音とは、良い知らせという意味です。救い主が来られるという良い知らせです。では、その福音は、どこで始まっていたのですか。誰によってですか。
・1〜4節/
・/

2 バプテスマのヨハネは、旧約のイザヤの書に預言されていたように、荒野で叫ぶ者の声として、救い主の来られる準備をする偉大な使命を受けて、神様から遣わされた使者でした。なぜ、福音が語り始められる所、福音の始まりが荒野なのでしょうか。イスラエルの民にとって、荒野はどんなところでしたか。
・申命記8:2〜5/
・申命記2:7/

3 荒野は、何もありません。荒野は、明日どのように生きるか保障のない所です。荒野は、必然的に傲慢な生活を断ち、地位や権力を捨て、囚われていた物から離れさせるところです。ですから、荒野は人が神様のみを眺めるようにさせるところでした。神様は、そこで民を養い、御言葉で訓練してくださいました。民にとって、荒野は、神様の御言葉を聞く、福音のはじまりに相応しい所でした。荒野で叫ぶ者となったバプテスマのヨハネという人は、どんな人ですか。何をしていましたか。
・4〜6節/
・ルカ1:13〜16/

4 バプテスマのヨハネは、エルサレムの祭司の生活をしながら尊敬を受ける人生を生きることができました。しかし、この世の富貴とは無縁の荒野で叫ぶ者になりました。荒野で、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め、いなごと野蜜を食べる他は何もありませんでした。この人の姿を見て思うことは何ですか。


5 悔い改めと訳された「メタノイア」は、メタは「別な方法で」ノイアは「考えること」つまり根本的に考えや観念を変えること、心の方向を変えるという意味です。それまでの生きて来た方向を変えるということです。その結果、生活の方向、行動が変わることです。 あなたは、イエス様の十字架の意味を知って、福音を信じてから、どのように考えや心の方向や生き方が変わりましたか。



6 バプテスマのヨハネの名声を求めて、人々がこの荒野へやって来ました。そのように有名になったり、偉大な働きができたりしたら、人はどうなるでしょうか。得意になったり、威張ったり、高慢になるでしょう。バプテスマのヨハネは、どうなりましたか。
・7〜8節/
・ヨハネ3:26,30/

7 私たちのために十字架にかかってくださったイエス様の姿は、どうでしたか。
・ピリピ2:5〜9/


8 ヨハネは、自分がやるべきことと限界をよく知っているさわやかな人でした。人は、自分を誇りたがり、高慢になりがちです。人の評価を気にし、低められることを嫌います。でも、バプテスマのヨハネの姿勢は、低く見られてもけっこう、自分のなすべきことをして、信仰者としても責任を果たせればいいのです。功績を積み、評価されたとしても、自分を通して主の栄光があらわされることを求めます。このような信仰者の姿を見て、どんなことを感じますか。



9 荒野は不便で辛い所ですが、荒野こそが神様と出会う所です。福音が聞こえて来る所です。驚くべき神の恵みを体験する所です。私たちの荒野は、私たちが問題で傷み、困難で不安を覚え、不遇だと思う所です。あなたは、荒野のような所に置かれていますか。不毛な道を歩まされましたか。そこで、主のどんな体験や導きを受けましたか。
・詩篇119:71/

「命の実を刈り取ろう」

 今日の箇所には、「あなたの道、主の道、主の通られる道」と繰り返されています。初代教会の信徒たちのニックネームは「この道の者」でした。使徒9:2。自分の救いのために十字架に犠牲になられたイエス様を信じる道です。バプテスマのヨハネは、イエス様の道を認めて受け入れ、自分の人生の道とし、人々にその道を証ししました。今私たちの前にこの道があります。天国へ続く道です。今日の学びを通して、気付かされたこと、悔い改めたこと、決心したことなど分かち合いましょう。ヨハネ14:6。

戻る