小グループで聖書を学ぶ
5 わたしについて来なさい(マルコ1:16〜20)

「心の門を開いて」

 現代社会は、豊かで、平和で、生活の質も高いのに、なぜか生きにくく、働きにくい世の中になっていると言われています。人々に余裕がなく、ぎすぎすしていて、何かに追われているようで、とても生きにくいと多くの人々が感じています。そして、私たちもその影響の中にあるでしょう。いったい聖徒たちは、どのように生きる者なのでしょうか。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 宣教を開始されたイエス様は、まず弟子たちを呼ばれました。何をしていた人々ですか。どんな状況の中に生きていた人々だと思いますか。
・16,19節/
・ルカ5:5/

2 漁師たちの生活は、今と比べようもないほど厳しい労働で不安定なものでした。この時も、彼らは、一晩中漁をしたが一匹もとれませんでした。そんな生活の繰り返しに倦怠感もあったでしょう。今日もまた、労働状況は厳しく、雇用環境も不安定です。人間関係の軋轢もあり、心身の病気にもなります。彼らは、どんな思いや考えで生きていたと思いますか。



3 ガリラヤの漁師たちに対して、イエス様は「わたしについて来なさい」言われました。これが、イエス様との出会いの瞬間です。誰でも、イエス様を知って、信じて救われたなら、イエス様のこの召しを聞いたということです。「わたしについて来なさい」とは、生き方を変えなさいということですが、イエス様が示してくださった姿はどういうものですか。
・17節/
・マルコ10:45, ローマ12:1〜2/

4 彼らは、ガリラヤ湖の漁師という職場で、自分や家族のために生きようと懸命に働いていました。幸福は、やりがいと生きがいにあります。自分のためだけに生きていたのでは、やりがいと生きがいはありません。人は、神の栄光をあらわし、互いに愛し、仕えるために造られた者です。イエス様について行く、イエス様に従う者は、何と言われていますか。どういう姿勢で生きる者ですか。
・マタイ28:19/
・Tコリント11:1/

5 イエス様は、弟子たちを魚を取る漁師でなく、「人間をとる漁師にする」ために召されました。この譬えに注目しましょう。魚を取る漁師と人間をとる漁師の違いは、何ですか。共通点は何ですか。
・17節/


6 弟子となってイエス様に従う時、違う人になるのでなく、漁師でありながらも、人を取る漁師になるというところに、適用の強調があります。たとえば、ただ契約を取る営業マンではなく、人の信頼を取る営業マンになるというようなことです。保育者であれば、イエス様の愛で保育する保育者になるということです。魚を取るのは魚を殺すためで、人を取る漁は人を生かすためです。それぞれの職業や立場で、「人を取る〜になる」ためには、どうすればいいと思いますか。導きを受けたことはどんなことですか。



7 主は、私たちをそれぞれの働きを通して、人を生かし、人を救おうとされておられます。自分の能力が心配ですか。イエス様ご自身が、人をとる漁師に、人を生かす働き人に育ててくださいます。それには、何が必要でしょうか。「わたしについて来なさい」というイエス様の召しに対して、彼らは、どう応答しましたか。何が強調されていますか。
・18,20節後半/


8 会社員であろうと、学生であろうと、主婦であろうと、イエス様を信じて救われた者は、イエス様の弟子とされたのです。その働きや場所で、主の弟子として用いられる者となりました。そのために、イエス様に倣い、イエス様に学び、御言葉によって造り変えられなければなりません。弟子たちは、どんな人が、どのような人に変えられましたか。
・Tコリント1:26〜28/


9 一度しかない大切な人生をどう生きますか。幸せな人生を生きたいですか。夜通し漁をしても一匹も取れなかったシモンが失望して網を洗っていた時、イエス様のお言葉に従ったらどうなりましたか。ここからあなたは、どんなことを思いましたか。
・ルカ5:4〜6/

「命の実を刈り取ろう」

 イエス様の弟子として生きるには、御言葉にどれほど従うかにかかっています。すべてのことは、主に任せて、すべての心配と不安を捨てて、従って来ることをイエス様は望んでおられます。もう無駄な歳月を重ねるのはやめましょう。いつ世を離れるのか私たちには分りません。充実して、イエス様の弟子として生きることを願います。きょうの学びを通して気付かされたこと、悔い改めたこと、決心したことなどを分かち合い、祈りましょう。ルカ5:5。

戻る