小グループで聖書を学ぶ
7 霊肉ともに癒してくださる主(マルコ1:29〜34)

「心の門を開いて」

 多くの病気が、単に肉体的なことだけではなく、何らかの心因性があると言われています。分かり易い例は、ストレスで病気になるということです。聖書に出て来る病気や悪霊につかれた人々の中にも、そのような人々が多くいたようです。イエス様は、そのような人々をどのようにしてくださったのでしょうか。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 今日の箇所に出て来るシモンのしゅうとめの病気も、そうかもしれません。普通に病気(マルコ1:34)と言わずに、ここでは「熱病」と言っています。いわゆる普通の病気とは違っていることを思わせます。そもそも、なぜシモンの家に来たのでしょう。シモンがイエス様に付いて行ったことを姑は、どう思ったでしょうか。姑の熱病に付いて、色々想像してみましょう。
・29〜30節/
・16〜18節/

2 姑というものは、自分の娘のことが心配であり、その婿に対する期待や関心は相当なものでしょう。その婿が、突然漁師をやめて、イエスという人の弟子になったというのですから、娘のことが心配になって、自分の生活の先行きを憂い、婿への怒りも生じて来て、ついに熱が出て、寝込んでしまったのかもしれません。現代で言えば、心因性発熱でしょうか。私たちも、心配や不安を覚えて憂い、失敗や挫折でストレスを感じて具合が悪くなったことがないでしょうか。
・詩篇31:9/
・箴言15:13/

3 姑も聖書の神様を知っている民なのですが、自分の思いや感情が中心の価値観でした。娘が収入のある良い人と結婚して、安定した生活ができる、これが彼女の偶像だったのでしょう。婿へ恨み、イエス様への反発という思いから罪も生じます。思い通りにならない場合、誰かのせいにして恨み、批判し、他の人を妬みます。不安や葛藤から罪の思いが生じたことはありませんか。どんな思いでしたか。
・ガラテヤ5:19〜20/


4 イエス様は、どうしてくださったのでしょうか。この姑の気持ちはどう変化して、その行動にあらわれましたか。
・31節/
・ルカ4:39/
5 イエス様がこのような事情をご存知で、シモンの家を訪れたのだと思われます。イエス様が、彼女の心の傷を癒してくださったので、姑は一変に心も体も癒されました。ああ、娘も私も見捨てられたのではない、イエス様は救い主だ、私を顧みてくださったと分かりました。安心した彼女は、すぐにイエス様たちをもてなし始めました。こういう箇所を学んで、どんな思いを与えられますか。(参考/イザヤ61:1〜3)



6 イエス様を救い主と信じるならば、イエス様を信頼して、御言葉に従うことが必要です。これは、信仰生活の基本です。シモンの姑は、イエス様を信頼しないで、熱病になりましたが、イエス様が自分の婿を召してくださった大いなる意味を知り、イエス様が自分の境遇を顧みてくださることを知り、心配と悩みがなくなり、希望が与えられました。私たちも、イエス様に癒していただかなければなりません。どんな思いですか。



7 このような癒しを見聞きした人々は、この素晴らしい恵みを語らずにはいられませんでした。そして、瞬く間に町中に噂は広がり、病人や悪霊につかれた人をみな、イエス様のもとに連れて来ました。ここから、私たちは、何を学ぶことができますか。
・32〜33節/


8 イエス様は、様々な病気にかかっている人々を癒してくださり、人々から悪霊を追い出してくださいました。そのためにイエス様は何をしてくださいましたか。それは、どういう意味を持っていたのでしょうか。苦難のしもべの預言を参照しましょう。
・34節/
・イザヤ53:4〜5/

9 イエス様は、救い主として世に来られ、人々の罪と罰の身代わりとなって十字架にかかられました。そして、信じる者に、罪の赦しと天国への命を与えてくださいました。イエス様の救いとは、単にたましいの救いに留まらず、天国への希望にのみ限定することでもありません。イエス様の救いとは、人間のたましいと体まで完全に救うことです。救われる人間のすべての環境まで含まれています。あなたは、この恵みにどう応答しますか。


「命の実を刈り取ろう」

 今このような聖書的な信仰が必要です。ただ単純に御言葉通り信じて、従う信仰です。その信仰が、家庭を変え、教会を変え、社会を変えます。イエス様は、罪の中にとらわれ、精神的に疲れ弱り果てて、心傷つき、病んでいる人々のところに来てくださいました。罪と滅び、痛みと病から解放するために世に来られました。これが、クリスマスの意味です。今日与えられた適用を分かち合って、互いのために祈りましょう。

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