小グループで聖書を学ぶ
9 わたしの心だ、きよくなれ(マルコ1:40〜45)

「心の門を開いて」

 霊的病いの特徴の一つに無感覚症があります。精神的な感覚がにぶくなって、自分の心の状況が深刻であるにもかかわらず、神様に懇願しないのです。体の健康は気にしても、たましいの健康を気にしないのです。一人の悲惨な病気の人を通して、たましいの癒しの必要を学びましょう。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 この箇所にツァラアトに侵された人が登場します。ツァラアトとは、重い皮膚病からカビ菌類による症状まで含んでいるものです。伝染性が心配され、宗教的にも汚れているとされたので、この病気にかかっているとされた人は、仕事をやめさせられ、町から追い出されて、決められた所に隔離されました。この病気になった人々は、どのような状態、どのような心となっていたと想像できますか。
・40節/


2 この病気だとされた人は、その症状の酷さばかりでなく、人々から引き離され、社会から追放され、罪人同然の扱いを受け、悲惨な人生を過ごすことになりました。この病気の人々は、「私はずっと酷い状態のままだ、人から見捨てられ、私には何もない、あまりにも悲しい、辛い」と思っていたでしょう。当然、そんな境遇にさせた人々や社会に恨みや憎しみも抱き、その思いが心痛めました。あなたも、このような心情になった時がありますか。



3 この病気の人々は、何とか生きることはできても、社会生活と人々との交わりから隔絶され、社会的所属感はなく、愛されることもなく、尊厳を受けることはありませんでした。それが一番苦しく、悲しかったでしょう。では、この人は、悲しみと失意のままでしたか。恨みや憎しみの中でしたか。どうしましたか。苦難と悲しみの中にある人々に御言葉は何と言っていますか。
・40節/
・ヘブル4:16,詩篇50:15/

4 イエス様は、この人をあわれんで、どうしてくださいましたか。この人の求めとイエス様の答えに共通する特別な表現に目を留めましょう。どういうことですか。
・41〜42節/


5 この人は、自分が「単に治療されることを望んだのでなく、体と心が「きよくされる」ことを望みました。この人の心の中には、人々や社会への恨みや憎しみが渦を巻いていたでしょうし、そんな境遇になっていることで、神様への恨み辛みもわいていたでしょう。その心が、イエス様によってきよめられることを願いました。罪の聖めは、何によって可能なのですか。
・Tペテロ3:18/


6 イエス様は、その人を「深くあわれんで」くださいました。悲しく辛い境遇にあったその人の心の痛み、悲しみをご自分のものとして深くあわれんでくださったということです。人は、苦しみや悲しみの中で、他人は私の苦しみを分かるはずがないと言いますが、イエス様は私たちのためにどうなられましたか。
・ヘブル4:15〜16/


7 この後、イエス様は、いくつかのことをこの人に命じています。社会復帰の手続きについてのことの他に、何をしないように言われていますか。なぜ、そういわれたのですか。
・43〜45節/


8 この人が、イエス様の言いつけを守らないで、「この出来事をふれ回り、言い広め始めた」ために、イエス様を重病も治す超能力者扱いして、人々が殺到して来て、町に入ることができなくなりました。イエス様が「きよくなれ」と願ったことは、肉体の癒しよりも、たましいの癒しです。たましいの癒しを願い、加えて、肉体の癒しを願われたのです。イエス様が世に来られた目的は何ですか。
・マルコ1:38/


9 世の価値観は、健康で、裕福で、自分の思い通りになることです。そんな価値では、健康と富と繁栄が何よりも必要で、それがある時、人々は喜んで感謝します。そのようなものがなければ、憂鬱になり、落胆して失望します。ですから、生活の浮き沈みが激しく、ストレスが多いのです。世の価値観で生きていると、失敗したら悲観し、病気になると落ち込み、誰かの言動に傷付きます。そのような経験を分かち合いましょう。


「命の実を刈り取ろう」

 病気にかかったからと言って、神の子とされた恵みが取り去られるわけでもありません。病気が治らないとしても、救いと永遠の命の祝福がなくなることはありません。イエス様を信じることは、新しい命に生きる者になることです。Uコリント5:17。イエス様に救われた者は、罪の赦しと天国への命を与えられ、救われた恵みの中で生きることができます。今日の学びから受けた適用を分かち合い、祈りましょう。

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