小グループで聖書を学ぶ

46 みなに仕える者に(マルコ10:32〜45)

「心の門を開いて」

 子どもから大人まで、どうすれば一番になれるか、どうすれば偉い人になれるかと人々は考えています。誰にでも、人より評価され、より尊敬されたい思いがあります。今日の箇所には、その方法が記されています。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 エルサレムに近づいて行き、イエス様が3度目の十字架と復活の話をされました。33~34節。3回繰り返されたということは、とても重要なことだからです。しかし、それを聞いた弟子たちは、そのことがまったく分かっていませんでした。2人の弟子ヤコブとヨハネが、イエス様にお願いしました。それは、どんなお願いですか。
・35〜37節/
・マタイ20:20〜21/

2 イエス様がエルサレムへ行って王様になれば、自分たちは右大臣、左大臣にしてほしいと思ったのです。弟子たちの関心は、このようなことだったのです。大事な十字架の話をしているのに、なんて情けない俗物感情でしょう。どれほどイエス様の心を痛めつけていたことでしょうか。私たちも、霊的な御言葉を聞きながら、人間的なことだけを考えて、文句を言ったり、悪態をついたり、自己中心になっていることはないでしょうか。



3 がっかりし、心を痛めておられたイエス様は、2人にどんな質問をされましたか。それは、どんな意味ですか。彼らは、考えなしにすぐに「できます」と答えましたが、後にどうしましたか。
・38〜39節, マタイ26:39/
・マルコ14:43,50/

4 このやり取りを聞いていた他の弟子たちが怒りました。他の弟子たちが「腹を立てた」というのは、彼らも同じ考えだったからです。そこで、イエス様は、弟子たちを呼び寄せて、弟子としてどう生きるべきなのか、大事なことを教えてくださいます。どんな教えですか。
・41節/
・43〜44節/

5 イエス様は、「偉くなりたいと思う」とか「人の先に立ちたいと思う」こと自体を問題にしておられません。そういう思いを認めておられます。最初から純粋な思い、崇高な霊性がなくてもいいのです。偉くなりたい、人の先に立ちたいと思って、みなに仕え、みなのしもべになることを続けて生きて行くと、どうなると思いますか。



6 みなに仕えたとしても、やってあげたという思いがあると評価を期待し、不満も出て来ます。もう仕えてやるもんかとなります。イエス様は、「しもべとなりなさい」と言われましたが、しもべの精神、しもべの姿とはどんなものですか。引用箇所を読んで、生活の現場での自分と比べてみましょう。
・ルカ17:7〜10/


7 私たちは、自分の人生において仕える姿が必要でしょうか。私たちの家庭や職場、学校という生活の現場において、どのような仕える姿が必要であるべきかを考えてみましょう。私たちの主は、仕えるしもべとして来られたイエス様のように、私たち一人一人が、仕えるしもべ、仕える専門家になることを望んでいます。具体的な示唆や導き受けましたか。



8 それでも、仕えるのは損だ、しもべなんて嫌だと思われるでしょうか。イエス様は、仕える者になりなさい、しもべになりなさいと弟子たち、私たちにただ命じるだけではありません。最後に何と言われましたか。何のために世に来られて、何をされたと言われましたか。
・45節/
・ピリピ2:6〜8/

9 イエス様は、多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために世に来られました。私たちは、このイエス様の十字架の死が自分のための犠牲だと信じています。言い尽くせないほどの感謝でいっぱいです。イエス様の十字架は、死ぬまで仕えたということです。これを知って、どういう思いになりますか。


「命の実を刈り取ろう」

 私たちは私たちのための十字架の犠牲という主の愛を受けました。私たちの生活の現場にいる方々も、同じ愛を受けた方々です。私たちは、相手の存在を尊く思って、しもべの精神に仕え生きていく時、主は私たちを偉い者、人の先に立つ者としてくださいます。私たちが、世にあってしもべの精神で生きて行く時、主の祝福と恵みがあります。今日の学びで与えられた適用を分かち合い、互いのために祈りましょう。マルコ10:45。

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