小グループで聖書を学ぶ

48 ホサナ、救ってください(マルコ11:1〜11)

「心の門を開いて」

 イースターの一週間前、受難週の始まりの日曜日は、棕櫚(しゅろ)の日曜日、パームサンデーと呼ばれています。その日人々が、棕櫚の枝を道に敷いて、イエス様のエルサレム入城をホサナと迎えたからです。ろばの子に着目しながら、大切なことを学びましょう。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 いよいよイエス様がエルサレムに入られることになります。その時、奇妙なことを弟子たちに命じられています。なぜ、イエス様はそれを必要とされたのでしょうか。
・1〜3節/
・マタイ21:4〜5/

2 ろばの子が連れて来られる様子が、不思議です。今まで誰も乗ったことのないろばの子であること、縛られていたこと、イエス様に言われたように答えれば許してくれたことです。イエス様は、ろばの子についてすべて前から知っていたかのようです。私たちがろばの子になって考えてみましょう。ろばの子のすべてをご存知でおられたイエス様は、私たちのことのすべてもご存知だということです。このことを知って、どう思われますか。何を感じられますか。
・4〜6節/
・エペソ1:5〜6/

3 ろばのイメージは何でしょう。ドンキーと言い、愚かという意味があります。人々は、十字架の出来事を愚かだと言います。十字架に死刑になった者が救い主だなんて、愚かだというのです。このことについて、聖書は何と言っていますか。
・Tコリント1:21〜24/


4 イエス様がろばの子に乗って、エルサレムに入城されたのは、馬に乗る王様のようではなく、平和のために来られた柔和な、謙虚な方であることをあらわしていました。そのイエス様を、人々はどのように迎えましたか。人々は、勝手に期待してそのようにしたのですが、後には何と叫ぶようになりますか。
・7〜10節/
・マルコ15:12〜14/

5 このような弟子たちの自分勝手な期待と欲、残念な姿を見て、どう思いますか。イエス様は、私たちを罪の裁きと滅びから救い、たましいに平和を与えるために来られたのに、私たちが自分の欲を満たす勝手な期待をしていたら、どうでしょうか。
・/


6 人々はホサナ、ホサナと賛美したというのですが、ホサナとは、「救ってください」という意味です。彼らは、自分たちの肉的な必要を満たしてくれる方として賛美していました。この時人々は、過ぎ越しの祭りのために犠牲をささげるために来ていましたが、私たちの救いには、何が必要でしたか。私たちは、どんな思いで礼拝し、賛美するのですか。
・ヘブル9:14/


7 私たちは、このイエス様の犠牲の死を覚えて、感謝して賛美するのです。罪から解放して天国へ入れてください、私を救ってくださいと叫ばなければなりません。救い主イエス様が、ろばの子に乗って、エルサレムに入って来られました。この偉大なことに用いられたのは、ろばの子でした。取るに足りないものと見られても、イエス様の栄光をともにしました。どうしたら、主に用いられるのでしょうか。
・3節/


8 自分には何もないから用いられないと思うことは間違いです。主がお入用なのですと呼んでいただければ、用いられます。イエス様を信じている人、イエス様の救いを求めている人は、呼ばれています。イエス様に用いられる主の弟子とは、どんな者なのですか。
・Tコリント1:27〜28/


9 この時のろばの子も、自分がイエス様に召しだされていることがどれほどの栄光なのか分からないまま引き出されています。救い主を乗せ、人類を救う働きに用いられたのです。ひょっとしたら、私たちも今主に用いられていることが分からないでいるのかもしれません。「主がお入用なのです」と呼ばれています。あなたは、どう応えますか。
・ローマ8:28,32/
・詩篇119:37/

「命の実を刈り取ろう」

 主は、弟子たちや神のしもべたちを呼んで用いられたように、今日も私たちを召し出して、救いの働きに参加させてくださいます。教会での奉仕ばかりではありません。家庭や職場、学校などにも召しだされて、主の栄光のために用いられるのです。その召しに応えて、従順になる時に用いられます。私たちは、それぞれの生活の現場で主の栄光をあらわして生きるのです。どのようにして、それぞれの生活の現場で、イエス様をお乗せするろばの子として用いられることを願いますか。エペソ1:18〜19。

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