小グループで聖書を学ぶ
49 実りのある信仰へ(マルコ11:12〜20)

「心の門を開いて」

 今日の箇所は、しばしば誤解され、難しいと言われます。無花果の話の間に宮での事件が挿入されており、サンドイッチ技法と言われています。関係のないように見える二つの事件が、実際には密接に関係していることをあらわす文学技法です。二つを関連づけて見ると、信仰の実りというテーマが、霧が晴れるように鮮明になって来ます。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 イエス様が泊まられたベタニア村は、隣のベテパゲ村の名の意味がいちじくの家というくらい、いちじくの多い所でした。いちじくの木を見て、イエス様は何を求められましたか。無いと分かると、どのような反応をされましたか。何かおかしいな思われることはないですか。
・12〜14節/


2 実のないのは実のなる季節ではなかったからだというなら、どうして実はないかと見たのでしょうか。実がないくらいで、もう実は成らずに枯れてしまえとは、お腹がすいて怒ったのでしょうか。引用箇所から知ることのできることは、何ですか。いちじくの木と葉ばかりで実のないことは何を表していたのですか。
・ホセア9:10/
・ミカ7:1/

3 葉だけが茂っていて実がないというのは、人々の信仰が形だけで実りがないというのです。信仰の成長や霊的成熟がなく、実を結ぶ信仰の人生を歩まない神の民は、もう神の民ではないというのです。実がないかと見たのは、神の民として選び、祝福を与え、守って来た神様が、信仰の実りを期待されていたからです。葉だけが茂っていて実のないいちじくの例えは、あなたの目には、どう映りましたか。



4 いちじくの木で教えられた、信仰の実がないということは、この後続く神殿での事件に引き継がれています。葉ばかりで実のないいちじくの木であったエルサレムの人々は、どんな様子でしたか。本来祈りがささげられるべき神殿の庭では、どんなことが行われていましたか。人々は、どうしていましたか。
・15〜17節/


5 神殿の庭には、犠牲としてささげるものを売っている人たち、ローマの貨幣をユダヤのコインに換えてくれる両替人がおり、多くの巡礼者たちや器具を運ぶ者が行き交い、喧騒にあふれていました。それをご覧になられたイエス様は、何をされましたか。それは、庭にいた人々の様子に怒りを爆発させたのでしょうか。この事件の前に、イエス様はエルサレムのために何をされましたか。
・ルカ19:41〜45/


6 商売されていた所は、異邦人の庭と呼ばれるところでした。神の民ではない異邦人でも、ここまで来て祈りをささげることができました。まことの神様を慕い求めて来た異邦人がその光景を見たら、自分たちの偶像の宮と変わらなく、ご利益を求める人々と同じように見えたでしょう。人は、教義を学ぶ前に、まず信じている人々を見ます。私たちは、周りの人々にどんな言動を見せているのでしょうか。



7 次の日、このいちじくの木が枯れていました。それは、神殿へのさばきの宣言でしょう。葉ばかりで実りのない信仰は、枯れてしまうというのです。私たちも、聖なる恐れをもって、信仰の実りについて考えましょう。信仰の成長、霊的造り変えについて日ごろから考え、願っているでしょうか。それとも、自分の肉の思いどおりになることを願い、自分の肉の気持ちがよくなることばかりを考えているのでしょうか。
・20節/
・エペソ4:14〜16/

8 いちじくの木を育てる目的は、実を結ばせることです。実を結ばない木は、抜かれて燃やされてしまうだけなのでしょうか。私たちの実りについて、救い主イエス様の愛と忍耐を確かめましょう。
・ルカ13:6〜9/
・Tヨハネ2:1〜2/

9 神様は、私たちをご自分の民とするだけでなく、神の民らしく生きることを願われ、御言葉を与え、恵みと祝福をくださいました。イエス様の十字架の犠牲を通して私たちは、どのような人として生きることを期待されていますか。
・ガラテヤ5:22〜25, Uテサロニケ1:3/

「命の実を刈り取ろう」

 例話のように、「父よもう少し待ってください。御言葉で養ってみます。チャンスを与えてください。そうしたら、この人も成長してくれます。信仰の実を結びますから」と、イエス様はとりなしてくださっておられます。この愛に応えて、信仰の実を結ぶ人生を送りたいと願います。今日の学びで与えられた適用を分かち合い、互いのために祈りましょう。

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