小グループで聖書を学ぶ

50 信じて、祈って、赦して(マルコ11:21〜25)

「心の門を開いて」

 日本人の多くは、何も信じていないと言います。しかし、人は何かを信じて生きています。キリスト教を信じる時、コンバージョン、改宗と言います。その意味は転換です。神の民は信じていたつもりでも、実態は葉ばかりの実のない信仰でした。神を信じる信仰へ転換が必要です。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 いちじくの木は、翌朝見ると、根まで枯れていました。自分も葉ばかりで実のない信仰ではないだろうかと思っていた弟子たちは、根まで枯れたいちじくの木を見て、びっくりして、恐れたようです。そのような弟子たちに対して、イエス様は何と言われましたか。
・21〜22節/


2 神の民は、天地の創造主を信じていましたが、その信仰は形ばかりでした。形だけの信仰は枯れてしまうことを、根まで枯れたいじちくの木によってまざまざと示されました。創造主を信じる信仰とは、肉の思いや世の価値観に支配されていた者が、聖書の価値観に立つことに転換すること、また、天地を創造された神様に従う生き方に転換することです。それまでの自分なりの偶像をもってご利益を求める信仰ではなく、まことの信仰に転換しなければなりません。私たちも、自分自身を省みてみましょう。どうですか。



3 人は、罪のために神様から離れ、滅びに向かう者となっていました。それで、人を創造された神様は、罪の赦しと天国への命を与えるために救い主イエス様を世に遣わしてくださいました。これほどまでに私たちを愛してくださる創造主なる神様が、私たちに命じられたことは何ですか。山は、何のイメージでしょうか。
・ヨハネ3:16/
・23節/

4 人々は、問題という山に押しつぶされそうになっています。しかし、山が動いて海に入れというように、難題が解決に至る明確な目標を持つということは、人生の中で明確な夢やビジョンを確信することです。どのように持つのですか。
・ピリピ2:13,/
・使徒16:7〜9/

5 夢やビジョンを妨げることがあります。疑いです。イエス様は、山が動くことについて1つ条件を付けました。疑わずに信じることです。疑いという言葉は、判断する、区別するという意味です。つまり、御言葉や神の導きに対して、これは無理、これは違うという自分の思いが求めなくさせ、祈らなくさせるのです。疑いは、神様に対する不信仰です。肉の思いや環境が疑いを植え付け、私たちを失望させます。停滞や悪化が夢を奪います。あなたも疑いを持ちませんでしたか。どうしたら、疑いに打ち勝つことができるのですか。
・ピリピ2:13〜14/
ローマ10:17/

6 イエス様は、信じて祈ることについて教えてくださいました。どんな特徴がありますか。あなたの祈りと比べてみてください。
・24節/


7 信仰の父と呼ばれたアブラハムの例を見ましょう。彼は、空の星を見せられて、子孫について素晴らしい約束、夢を受けていましたが、どう考えても無理だ、もうだめだという状況になりました。しかし、アブラハムは、どうしましたか。
・ローマ4:18〜21/


8 祈りにおいて、問題となるのが、罪の問題です。私たちの罪が祈りを聞かれなくしてしまいます。イエス様は、信仰について教えられた時、何と言われましたか。
・イザヤ59:1〜2/
・25節/

9 人からの罪や過ちを赦していなければ、祈りは聞かれません。私たちが神様に罪の告白をして、罪の赦しを受けた時、神様との正しい関係が築かれて、祈りが聞かれるようになります。そして、自分に対する人の罪を赦すようにと求められます。しかし、人の罪を赦すことは、簡単なことではありません。そのままでは、神様の恵みと愛を知ることができないのです。なによりも、自分の罪が赦されません。イエス様の例話は、何を教えていますか。
・マタイ18:27〜33/

「命の実を刈り取ろう」

 いちじくの木の話から、今回の信仰の話が出ています。いちじくの木が根こそぎ枯れたという事件であきらかになったことは、主の御言葉は、御言葉通り実現するということです。この3つの信仰の勧めは、神の御言葉はそのまま実現するということが貫かれています。私たちが、このような信仰を持つように転換することを願います。今日の学びで与えられた適用や気付きを分かち合い、互いのために祈りましょう。ピリピ2:13〜14

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