小グループで聖書を学ぶ
52 見捨てられた石が礎石に(マルコ12:1〜12)

「心の門を開いて」

 イエス様が十字架にかけられる時が近づいて来ました。そこで、イエス様の十字架とは何か、どうして神の御子が十字架にかからなければならなかったのか、なぜ神様は愛する息子を十字架に渡されたのか、神様はどんなお方なのかについて今日の箇所から学びます。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 イエス様がどうして十字架にかけられたのか、神様はどんなお方なのかを教えるために、ぶどう園の主人と小作人である農夫のたとえ話をしてくださいました。どんな内容ですか。比喩ですが、それぞれ誰をさしているのでしょうか。
・1〜6節/
・マルコ11:27〜32/

2 ぶどう園はイスラエルの民をさしています。主人は神様で、農夫たちはユダヤの指導者たちを意味していました。袋叩きにされ、殺されたしもべは神様が繰り返し送られた預言者のことであり、最後に送った息子とはイエス様のことです。それでは、たとえ話のこの後の展開は、どういうことをさしているのでしょうか。
・6〜8節/
・マタイ28:2〜4/

3 神様は、罪に滅んで行く人間を哀れんでくださって、ついには御子イエス・キリストを世に遣わして、私たちの身代わりに十字架に渡されました。神様がどんなお方であるかをたとえ話は教えてくれます。ぶどう園の主人は、何もかも完璧に準備して、小作人たちにぶどう園を貸しました。このことは、私たちに対してどのような確信を与えてくれますか。
・マタイ6:32〜33,/
・ピリピ4:11〜12/

4 この例えで、主人は小作人たちを信頼してすべてを任せて旅に出たと言います。神様は、世を創造された時自然の管理を人間に任せてくださいました。神様が私たちを信頼してくださって委ねられておられるということが分かります。人から信頼して何かを任されたら、大きな励ましや喜びを感じませんか。あなたを信頼して委ねられておられる神様に対して、どんなことにおいて、どう応答されますか。
・創世記1:26/


5 この例えは、神様が私たちに対してどれほど忍耐深くあられるかを示しています。一度しもべを袋叩きにして帰しただけでも、主人の怒りを買うでしょう。主人はそれを忍耐され、何度もしもべを送りました。ついには、自分の跡取り息子まで送りました。悪い小作人たちに対して、主人はなんと寛容なのでしょう。これほどまで忍耐されたのは、なぜですか。何を期待されたのですか。
・ローマ2:4/


6 さらに、神様の愛を拒む者は、裁きに至るということを示しています。小作人たちは、自分に施された神様の愛を悪用してしまいました。神様の愛に最後まで背を向けていると、チャンスがなくなり、滅びに至ってしまうのです。神の愛を知らないうちは、小作人のように神を裏切るかもしれませんが、神の愛を知った者はどうすべきですか。
・ローマ10:19/


7 イエス様がユダヤの指導者たちによって十字架にかけられて殺されますが、それによって救いの御業がなされます。そのことをどのように例えていますか。家を建てる者たちの捨てた石とは、イエス様のこと、家を建てる者たちとは、ユダヤの指導者たちです。礎の石、隅のかしら石とは、家を建てる時の角の隅に置く大事な石です。私たちは、どんな土台にどのように人生を築くべきですか。
・10〜11節/
・Tコリント3:10〜11/

8 この例えの農民たちは、すべて整えられて、信頼されて任されたのに、なぜ悪い人になったのでしょうか。どうして恩知らずの裏切り者になったのでしょうか。主人から預けられたぶどう園を管理してみると欲が生まれ、自分たちがぶどう園の所有者、主人になりたいと思い、跡取り息子が死ねば、自分たちが主人になれると錯覚したのです。このことは、私たちに何を示していますか。
・ヤコブ1:14〜15/
・Tコリント4:2/

9 聖書は、神様が私たちの人生の主人であることを教えています。このことを忘れた時、人は悪い小作人となります。神様こそ私の家庭や子ども、職場や学校の所有者であり、主人なのです。人間の悲劇は、神様を所有者から追い出し、自分が主人となろうとすることです。イエス様のされた別な例え話を読んで、思うことを何ですか。
・ルカ12:16〜20/

「命の実を刈り取ろう」

 神を信じる人は、私、私と言うのを減らさなければなりません。私たちの主語は、神様です。神を自分の主人として迎えて仕えるなら、私たちは幸いな人生を過ごすことができます。「主人が最後にその息子を遣わした」ことは、私たちに感激を与えます。今日の学びで与えられた適用を分かち合い、互いのために祈りましょう。

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