小グループで聖書を学ぶ

57 主が見ておられる(マルコ12:41〜44)

「心の門を開いて」

 間違って使われている言葉がけっこうあります。例えば、確信犯、話のさわり、失笑する、なしくずしなどです。聖書の中の話も、けっこう間違って理解されていることがあります。今朝の箇所は、献金のことを教えているわけではないし、自己犠牲の話でもありません。何が教えられているのでしょうか。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 神殿の庭の壁には、青銅製の献金箱が並んでいたそうです。それは、ラッパ状の形をしており、その中にコインを投げ入れるようになっていました。そこに、どんな人々が来てどのようにしていましたか。そこで、イエス様はどうしていましたか。
・41節/


2 貨幣はみな金属製です。紙幣などありません。ラッパ状の青銅製の箱に金属のコインを投げ入れると、お金は大きな音を立てながら、下に落ちて行きます。こういう状況からどんなことが起こるでしょうか。周りにいた人々は、その音を聞いて、どう思うでしょうか。お金を入れる人々は、どんなことを思いながら入れるようになるでしょうか。
・マタイ6:2/


3 41節のような人々がしていたのは、人々の賞賛と評価を期待したものでした。人々に気付いてほしいために、たくさんのコインを大きな音を立てて投げ入れていたのです。多くの人々において、人の評価を得る、人に認められることが快感となり、そのことが目的になり、偶像になっています。職場での仕事、家庭での家事や育児、勉強や奉仕において、このようなことがありませんか。分かち合ってみましょう。



4 続けて、イエス様がお金を投げ入れる人々の様子を見ておられたら、今度はひとりの貧しいやもめが静かにそこに来ました。41節のような人々と比べてください。どんな違いがありますか。お金の額や種類、ささげる人の心や姿勢、周りの反応や評価はどうですか。
・42節/


5 この女の人には、見せるものは何もありません。1レプタ銅貨は、一日分の労賃であった1デナリの128分の1の価値です。投げ入れた時の音で、周りの人々に貨幣の種類と枚数まで知られてしまいます。それでも、こうして神様に感謝をささげるために来ました。イエス様は弟子たちを呼んで、何と言われましたか。それは、どういうことをあらわしていますか。
・43〜44節/


6 この箇所は、献金の仕方について教えているところではありませんが、聖書が献金について書かれている箇所を参照しましょう。この貧しいやもめは、どんな思いでささげたと知ることができますか。
・民数記18:26/
・Tコリント16:2、Uコリント9:7/

7 この人がイエス様に賞賛されたのは、「みなは、あり余る中から」だが、「この女は、生活費の全部」という比率のためではありません。イエス様は、この人の心をご存知でした。どのような心構えでささげたのかを「見ておられた」のです。この人の姿は、どこに価値観をおいて、何を優先事項としていたのですか。



8 「すべてを尽くして神を愛する」ということが、この人の献金を含む信仰の根本的態度でした。私の所有するすべてが主のものであるという信仰の思いをあらわしているのが、献金です。私の富も、時間も、命までも神のものという信仰の心から、私たちの生き方、どう働き、どう学ぶかにあらわれて来ます。この箇所は、心の問題でした。御言葉は、どのような心や姿勢で生きるように勧めていますか。
・マルコ12:30/
・Tコリント10:31/

9 このように、今も主は、私たちの信仰生活を、献金も含めて見ておられます。どのような心でしているのか、どのような状況でささげているのか、どのような目的で行っているのか、洞察されています。私たちは、どんなことを意識して生きるべきですか。
・マタイ6:4,6,18/

「命の実を刈り取ろう」

神様は、私たちの信仰を見ておられます。主は、人々のささげる額を見たのではなく、その心、信仰をご覧になられました。金持ちは傲慢な心で来て、人々に聞かせるために大きな音を立てて投げ入れました。貧しいやもめは、神への信仰の心をささげました。信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。この人の信仰は、神を信頼する信仰でした。私を見ておられる主の目を意識して歩んでみましょう。学びを通して導かれたことや決心したことは何ですか。マタイ6:4,7。

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