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61 まさか私ではないでしょう(マルコ14:10〜21)

「心の門を開いて」

 この箇所は、有名な最後の晩餐でユダの裏切りが記されているところです。ユダはどうして裏切ったのか、何か別な意味があるのでは、なぜユダが弟子の中にいたのか等々議論百出ですが、そんな評論家ではなく、主の食卓に招かれた一人となったつもりで、今日の箇所を学びましょう。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 過越の食事をする日になりました。どこでするかを弟子たちがイエス様に聞くと、その場所がもう用意してあると教えてくださいました。なぜ、はっきり言わないで、そのような方法を取ったのですか。
・10〜15節/
・1,10〜11節/

2 どこの家かはっきり教えてくれないのは、イエス様を捕まえて、殺そうとしている者たちに、弟子たちとの最後の晩餐を邪魔されたくなかったからです。大切な過越の食事とは、何を覚えるための行事ですか。
・出12:21〜24/


3 「わたしの客間」(14節)と言われて、ご自分がこの食事のホストであることを強調しておられます。イエス様が、この過越の食事に弟子たちを招待してくださいました。私たちも、そこに招待されていると思ってみてください。その食卓で、イエス様は衝撃的なことを言われました。これを聞いた弟子たちの反応はどうですか。どうしてどのような反応をしたのでしょうか。あなたなら、どう反応すると思いますか。
・17〜18節/
・19節/

4 誰一人「私ではない」と断言していません。弟子たちも私たちも、主の恵みと愛をよく裏切ります。誰もが罪人です。その食卓は、過越の食事です。小羊が流した血によって、先祖たちが救われ、滅びと裁きを免れたことを覚えました。これは、何を預言していたことですか。私たちとどう関係していますか。
・ヨハネ1:29/
・Tペテロ1:18〜19/

5 ヨハネ13:1を見ると、イエス様は、犠牲の十字架を前にして、弟子たちを深く愛されて、弟子たちとの過越の食事を用意されたというのです。神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。私たちのために、ご自分のひとり子さえ惜しまずに過越の小羊として差し出されました。この愛にどう応えますか。
・ヨハネ3:16/
・Tヨハネ4:10/

6 イエス様は、弟子たちの中に裏切る者がいると言って、はっきり言われませんでしたが、その後は、どうですか。はっきり、「ユダが裏切り者だ」と言わないで、繰り返しあいまいな言い方をしています。なぜですか。
・18, 20節/
・ローマ2:4,Uペテロ3:9/

7 イエス様は、ユダの悔い改めを願われ、ユダが罪を悔い改める機会を何度も与えられました。しかし、ユダは、最後まで、悔い改めず、立ち返りませんでした。それは、なぜですか。彼の中に、何かあったからですか。
・10〜11節/
・Tテモテ6:10,ヤコブ1:15/

8 彼の信仰の特徴は、自分の考えでイエス様を信じていたということです。イエス様がエルサレムで王となれば、自分は財務大臣になると思い込んでいたでしょう。そうならないので、イエス様に失望したのです。イエス様を信じるというのは、自分の考え、自分の欲、自我が死んで、イエス様が働かれることです。多くの人々が、祝福を受けることだけを求めて、イエス様を信じます。事が思い通りにならなければ、ユダのように失望します。そのような信仰の傾向はないでしょうか。
・詩篇106:25/


9 他の弟子たちは、過越の食事の準備をする時、勝手にしないで、イエス様に聞いて、イエス様の言われるようにしました。イエス様に聞き従った結果、どんなことを経験しましたか。他の弟子たちの姿とユダを比べてどうですか。
・16節/


「命の実を刈り取ろう」

 イエス様を信じることは、主の御心に聞き従うことです。今自分が考えていることは、主の御心だろうかと省み、主に聞くのです。自分の計画を推し進めても、人生は進み、仕事はできます。しかし、神のご意志とは関係がなくなります。神の御心に従い、導きに委ねたなら、たとえ不可能に思えても、信頼します。主が導いて、準備しておられるからです。主の御言葉通り従ってみましょう。主の祝福が臨みます。今日の学びを通して気付かされたことや与えられた導きは、何ですか。箴言16:9。

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