小グループで聖書を学ぶ
64 裏切られて、見捨てられて(マルコ14:42〜52)

「心の門を開いて」

 人間関係の中で最も心に傷を負うことは、何でしょう。人から裏切られ、見捨てられることではないでしょうか。とても辛く悲しい経験であり、心に怒りや憎しみさえ生じるものです。今日の箇所は、イエス様が裏切られ、見捨てられた姿から、それをする人の罪と受けた者がどうして癒されるのかを学び、私たちへの適用とします。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 イエス様がゲツセマネの園で祈った後、そこに誰が来ましたか。どんな人々と一緒に来ましたか。
・42〜43節/
・マルコ14:10〜11/

2 ユダは「裏切る者」と言われています。なぜ、裏切ったのでしょう。お金の問題ということもあるでしょうが、勝手な期待外れのせいです。賢い彼はイスラエル王国の再興を期待し、自分の人生をイエス様にかけていました。もはやイエス様に付いて行っても、自分の目的を達成することは不可能だ、期待したメシアではないと結論をくだし、裏切ったのです。親しい友から裏切られたのです。寝食を共にしていた友、信頼して会計を任せた弟子から、裏切られたのです。親しい人から裏切られる気持ちは、どんなものでしょうか。
・詩篇41:9/
・詩篇55:12〜14/

3 親しい人々から裏切られる、親友に裏切られる、級友や同僚から裏切られる、親から裏切られることは、とても耐えられない、苦しくて悲しい、心に重く傷が残る体験です。友人なら当然こうしてくれるはずだ、親なら絶対にそんなことはしないはずだ、そういう期待や思いが外れる時、裏切られたと感じます。そのような経験や思いがないでしょうか。



4 イエス様と一緒にいた他の弟子たちは、人々がイエス様を捕らえた時、どんな反応を示していますか。結局弟子たちは、どうしましたか。
・47〜50節/


5 弟子たちの期待は大きかったので、捕まえられたイエス様の姿を見るのは辛くて、残念でならかったのです。もう、見捨てるしかなかったのです。人は、自分の期待に応えてくれないとその人を見捨ててしまいます。おそらく、私たちが人の期待に応えなかったことで関係が悪くなることもあるでしょう。反対に私たちも当然と思われる自分の期待に相手が応えてくれないと、もう期待しない、相手にしないと見捨ててしまうのではないでしょうか。私たちの経験を振り返ってみましょう。



6 今まで一緒にいてくれた弟子たちが、みなイエス様を見捨てて逃げてしまいました。イエス様は一人ぼっち、孤独です。人から裏切られ、見捨てられることは、痛みが残るでしょう。最も深い孤独感を感じることでしょう。一人ぼっち、皆私を見捨てて、皆私を忘れている、悲哀を感じるものです。イエス様は、ついには誰に見捨てられるまでになりますか。それは、誰のためですか。
・マタイ27:46/
・Tペテロ2:4/

7 裏切られ、見捨てられたイエス様、まさにそれが救い主の姿です。聖書を見ると、そこには神様の慈愛と恵みに対する人々の裏切りと背信の歴史が記されています。それに対して神様はどうしてくださいましたか。
・49節/
・マタイ21:33〜37, Tヨハネ4:10/

8 人々から裏切られ、見捨てられたために、心の内にある激しい憎しみや恨み、心に残る痛みや悲しみがあるなら、その叫びをどうしますか。イエス様はそのような人々にどうしてくださいますか。
・ヘブル2:18/
・Tペテロ2:24/

9 ここには、他の福音書にはない、一人の青年が登場しています。この青年は、この福音書の記者マルコだと言われています。彼は、異変に気付き、ゲツセマネの園に寝巻きの亜麻布を羽織ったまま駆け付けました。捕らえられたイエス様に付いて行こうとしたが、自分も捕らえられそうになって、恐ろしくなり、走るに不便な亜麻布を脱ぎ捨てて、裸で逃げ出しました。彼は、どうして恥ずかしい自分の姿を記しているのですか。50節の原文では「みな」という単語が最後に記されて、強調されています。
・50〜52節/

「命の実を刈り取ろう」

 マルコ自身も、イエス様を見捨ててしまったという心の痛みを抱えていました。私も弟子たちと同じだったと告白するため、恥ずかしい自分の姿を記しているのです。私たちも、自分のうちに主を裏切り、見捨てた罪を見ます。人を裏切り、見捨てたことがあるでしょう。私の心の奥にも罪が沈んでいます。裏切られ、見捨てられたと思う心の傷、憎しみ、怒りがあります。イエス様の十字架にその思いを付けてください。学びで与えられた適用を分かち合い、互いのために祈りましょう。ヘブル2:18。

戻る