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65 イエス様は黙ったまま(マルコ14:53〜65)

「心の門を開いて」

 一般の人が裁判に携わる機会はほとんどありません。ドラマなどで見た裁判の場面を想像してみてください。今朝の箇所は、イエス様の裁判の場面ですが、何か変です。まったく逆転が起きて行く裁判です。読む私たちも、傍聴席から裁判の当事者へと引き込まれて行きます。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 捕まえられたイエス様は、大祭司の邸宅に連れて行かれました。そこにエルサレムの権力者たちが集まって来て、裁判が始まりました。集まった人々は、サンヘドリンと呼ばれた議会の議員たちでした。71人の祭司、長老、律法学者たちで構成されたユダヤの最高権力者機関でした。この裁判の原告、被告、裁判官は、それぞれ誰ですか。証人や弁護人はどうなっていますか。
・53節/
・55節/

2 はじめから死刑にすることを決めていた裁判なんて、不当です。訴える側の議員たちが、検察官も裁判官も兼ねていました。被告を訴える証人は多く立てられましたが、被告側には弁護人も証人もいません。議員たちの立てた証人たちの証言の特徴は何ですか。そのような議員たちの姿は、何と言うことができますか。
・56〜59節/
・マルコ10:19/

3 律法遵守を声高に言う彼ら自身が、守ろうとしていません。偽証でイエス様を陥れ、死刑にしようとしていたのです。これが、罪の性質です。世で人々は平気で嘘を言います。人は、都合よく他人の言葉を変えて、批判し、責めています。このようなことについて、何か思い浮かぶことがありますか。



4 証人たちが寄ってたかってイエス様にとって不利な証言をしても、イエス様は黙ったままで、何の弁明もしませんでした。しかし、一転して供述に応じます。不利になると分かっていながら、毅然として答えられました。なぜでしょうか。イエス様の証言の結果、裁判の結果は、どうなりましたか。
・61〜64節/
・ルカ9:22/

5 裁判が結審すると、図に乗った者たちは、言葉と暴力でイエス様をこれでもかと侮辱するようになりました。人格を否定する酷い仕打ちです。イエス様の姿は、まさに、救い主の預言である苦難のしもべの姿です。この時のイエス様の姿は、私たちにどんなことを教えていますか。私たちが侮辱と嘲りを受けたとしたら、どうしますか。
・65節, イザヤ53:3〜6/
・Tペテロ2:23〜24/

6 イエス様を裁いている議員たちの罪の姿がますますあらわになり、逆転しています。イエス様が「人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来る」(62節)と言われましたが、その座とは、どんなことをする立場ですか。そこでイエス様は、私たちのために、どのようにしてくださるのですか。
・Uコリント5:10/
・ローマ8:34/

7 この裁判の場で、一際イエス様の姿がクローズアップされて来ます。「黙ったままで、何もお答えにならなかった」というイエス様の姿です。「不利な証言をしていますが、これはどうなのですか」と言われても、黙ったままでした。苦難のしもべの姿です。なぜ黙っておられたのでしょうか。どう思いますか。
・60〜61節前半/
・Tペテロ4:8, Tペテロ2:23/

8 偽証する人々と無益な論争をするのを避けて、黙秘されておられました。人々は、不利なことを言われっぱなしでは腹の虫が収まらない、悪く言われるままではプライドが傷つくなどと理由を付けて反論し、自己弁護をします。あなたがそのような時、どうなりましたか。
・Uテモテ2:14/
・テトス3:9/

9 世では、自分の有利なことばかりを主張し、争いで勝とうと声を大きくする人が多くいます。しかし、イエス様は、偽証に対しては反論せず、批判に応じて自己弁護をすることを静かに拒否しました。そして、十字架に進んで行かれました。ある注解者は、このイエス様の黙秘をmajestic silence「威厳のある沈黙」とコメントしています。イザヤ書にある苦難のしもべの姿を見て、沈黙されるイエス様について、コメントしてみましょう。
・イザヤ53:7/

「命の実を刈り取ろう」

 イエス様の沈黙は、騒ぐばかりの世、不義と自己主張の世に対する適切な対応でした。そして、イエス様の沈黙は、神に集中するための沈黙でした。神の御声を聞くために、沈黙する必要があります。きょうの学びを通して与えられた気付きや導きを分かち合い、互いのために祈りましょう。

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