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69 むりやり負わせられ(マルコ15:16〜25)

「心の門を開いて」

 ビアドロローサ(悲しみの道)をイエス様の十字架を背負って刑場まで共にした一人の人物がいます。どんな思いをして背負ったのか、どんな導きを受けたのか、その人生を通して、イエス様の苦難と救いを学びます。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 ピラトの官邸から刑場まで約1.5kmの道をビアドロローサ、悲しみの道と言います。当時十字架刑にされる囚人は、重い十字架を背負って刑場まで運ばなければなりませんでした。イエス様は、どんな状態でしたか。そのために、途中でどういうことが起こりましたか。
・15〜16節/
・21〜22節/

2 シモンは、クレネ、現在のリビヤから、過越しの祭りを守るためにエルサレムに来ていて、十字架を背負うイエス様を見物していました。その時突然、十字架を背負わせられたシモン、体も服も血だらけになり、沿道の人々から嘲りや侮辱を浴びながら、刑場まで行きました。そのような状況で、シモンは、どんな気持ちになったと思いますか。



3 なぜ私に背負わすのか、どうして私をこんな目に遭わすのか、なんて運が悪いんだと嘆きながら重い十字架を背負い、悲しみの道を歩んだことでしょう。あなたも、避けたい責任や困難を負わされることや、望まないことを担わなければならないことがありましたか。その時、どうでしたか。



4 イエス様の後ろから、十字架を背負って悲しみの道を歩くシモンは、肉が裂け、血のしたたるイエス様の背中を見ながら、群衆の罵りや嘲りの声を聞いて、どんなことを考えるようになったと思いますか。シモンは、刑場についた後の様子を見たり、イエス様の祈りを聞いて、どんなことを思うようになったでしょうか。
・22〜25節/
・ルカ23:34/

5 何の罪もないようなのに十字架にかけられ、人々から罵声を浴びせられている、抵抗もしないで手足に大きな釘を打たれている、十字架につける人々に対して恨みつらみを抱かない、この人は苦しみを自ら進んで受けているのだと感じて来ました。そして、何を思い出し、合点が行ったでしょうか。
・イザヤ53:3〜8/


6 この方が、人々からさげすまれ、のけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた苦難のしもべ、私たちの罪を負い、私たちの痛みをになった。そうだ、この方が私の身代わりに十字架にかかってくださり、私のたましいに平安をもたらし、その打ち傷によって私を癒してくださる方なのだと分かって来ました。むりやり十字架を負わされたという惨めで屈辱的な気持ちは、どう変わって行ったでしょうか。
・Tペテロ4:12〜13/
・Tペテロ3:14/

7 なぜ、シモンがイエス様を信じたと分かるのでしょうか。彼の人生は、その後どうなったと予想できますか。引用聖句も参照しましょう。
・21節/
・ローマ16:13/
・使徒11:20, 13:1/

8 イエス様との驚くべき出会いがシモンを信仰へ導き、その家族を救いに導きました。シモンの妻はパウロからお母さんと呼ばれるほどの交わりと働きがあったことが分かります。シモンの家族はみながイエス様を信じて、初代教会のために献身した家となりました。初穂であるシモンからクレネ人聖徒の働きが広がりました。むりやり負わされた十字架であっても、十字架は人を生かし、祝福します。十字架は、苦難のように訪れますが、祝福の通路となります。そのような経験や聞いた話しがあれば、分かち合いましょう。



9 私たちも、むりやり苦難を背負わされていることがあるでしょうか。望まない責任を負わされ、侮辱や嘲りを受けているかもしれません。しかし、それは意味の無いことではありません。神様が私たちに祝福を与える過程となります。苦難に出会う時、その意味するところは分からないとしても、その苦難を信仰で受けとめ、取り組む過程を通して、後にその意味と価値を知るようになります。イエス様は何と呼びかけておられますか。
・ルカ9:23/

「命の実を刈り取ろう」

 私たちは、人生において十字架を負わされる時があります。仕事や家庭のことで、人間関係のことで、病気や体のことで十字架を背負わされることがあります。シモンを思い出して、信仰をもって背負いましょう。シモンの家に祝福をくださった神様が、私たちにも祝福をくださいます。分かち合った適用のために、互いに祈りましょう。

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