小グループで聖書を学ぶ
70 ののしられ、見捨てられ(マルコ15:26〜38)

「心の門を開いて」

 十字架というと、十字架刑の残酷さや鞭打ちの酷さばかり強調されますが、十字架の場面をみると、別の痛みが描かれています。その痛みが私たちに癒しや救いを与えていることを学びます。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 十字架にかけられたイエス様に向かって、どんな人々がどのようなことを言っていますか。共通することは、何ですか。
・29〜32節/
・ルカ23:36〜37/

2 道行く人々、祭司長、律法学者たち、いっしょに十字架につけられた者たち、ローマ兵たち、十字架の現場にいたすべての人々が、イエス様をののしっています。あざけりの言葉を浴びせています。私たちが、職場の人々から、学校の友人たちからあざけられ、家族から非難され、周りの人々から悪口雑言を浴びせられる、そんな状態の中に自分がいるのを想像してみてください。どんな気持ちになりますか。心はどうですか。



3 イエス様がこれほどまでにののしられ、あざけられ、侮辱されるのは、なぜでしょうか。私たちが人々からののしられ、あざけられ、侮辱されると、どのようになるのですか。
・イザヤ53:5/
・Tペテロ2:23〜24/

4 ののしられ、あざけられるよりももっと心の痛みとなることがあります。それは、何ですか。イエス様は、何と叫ばれましたか。イエス様がそのようになられたのは、何のためですか。
・34節/
・イザヤ53:3〜4/

5 イエス様は、エルサレムの権力者から憎まれて捨てられ、無罪と分かったピラトから捨てられ、ホサナと賛美した群衆から捨てられ、3年間ともに過ごした弟子たちにまで捨てられました。私たちが、職場の人々から見捨てられ、友人から見捨てられ、家族にも見捨てられたと感じたら、どのようになりますか。心の状態はどうですか。


6 私たちが信仰生活をしている中で、最も困難な期間は、神に見捨てられたと感じる時ではないでしょうか。理解しにくいことが続けざまに起こる時があります。懸命に生きているのに病気になることがあります。大きな問題が自分や家族を襲うこともあります。いくら祈り叫んでも、応答がないように思われます。そのような時、私たちは、神様から見捨てられたと感じるのです。でも、本当に見捨てられたのでしょうか。
・Uコリント4:9/
・申命記31:6/

7 かりに誰かからののしられ、見捨てられたとしても、恨まないでください。憎しみ続けないでください。それは、自分も心で相手をののしり、見捨てたことと同じだからです。恨んだり、憎んだりしても、心の傷は治りません。痛むだけです。誰かからののしられ、見捨てられた時、どうすればよいですか。何を思い出しますか。
・Tペテロ2:23〜24/
・申命記31:6/

8 イエス様の十字架の描写は、人々のイエス様へののりしり、あざけりで満ちています。しかし、驚くべきことに、そのののしりやあざけりの中に十字架の意味を示しているのを発見することができます。もう一度読んでみてください。どんなことが発見できますか。
・29節/
・31節/
・26,32節/

9 「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ」はイエス様が十字架に死んで三日目によみがえることを証しし、「他人は救ったが、自分は救えない」はイエス様の十字架の身代わりの死による救いを証しし、イエス様は、私たちの救い主キリストであり、王となられました。なぜ人々は、「十字架から降りてみろ」とののしるのでしょうか。私たちが人々からのののしりやあざけりを聞いて、私たちも同じようにののしり返し、憎むなら、誰の策略に落ちることになりますか。
・Uコリント2:10〜11/

「命の実を刈り取ろう」

 人々が「十字架から降りてみろ」とののしるのは、イエス様の救いの御業を妨げようとするサタンが言わせていたのです。私たちが人々からのののしりやあざけりを聞く時、サタンがそう言わせて、私たちを罪に陥れようとしていることに気付かなければなりません。人々のののしり、あざけりは、イエス様の救いの御業を証ししたものとなりました。私たちも人々からのののしりやあざけりをこのように受け止めることができたら、幸いです。怒りも恨みも生じません。イエス様は、山上の垂訓で言われました。「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです」マタイ5:11。気付かされたこと、導かれたこと、癒されたこと、悔い改めたことがあれば、分かち合いましょう。

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