小グループで聖書を学ぶ
13 主日は礼拝と安息の日(マルコ2:23〜28)

「心の門を開いて」

 私たちにとって日曜日とは、どんな日なのでしょうか。教会では、主日とか安息日と言っていますが、それには、どういう意味があるのでしょうか。私たちは、日曜日をどう考え、どう過ごすべきなのか、イエス様の教えから学びましょう。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 イエス様が麦畑の中を弟子たちと歩いていた時でした。お腹が空いた弟子たちは、穂を摘んで、もんで殻を取り、食べ始めました。それを目撃したパリサイ人たちは、何と言いましたか。それは、パリサイ人たちが、その弟子たちの行為を何とみなしたからですか。
・23〜24節/
・出エジプト20:9〜11/

2 パリサイ人たちは、安息日にしてはならない39条234項もの規定を作って、安息日違反だと騒ぎました。そもそもエジプトに住んでいた頃の民は、奴隷でした。奴隷は、1年365日、一日も休まずに働かなければなりません。疲れても病気になっても、苦役を休むことができませんでした。安息日は、民にとって感激の言葉でした。現代日本では、内閣府がワーク・ライフ・バランス憲章を作って、仕事と生活の調和の必要性を説いています。あなたのワーク・ライフ・バランスはどうですか。
・申命記5:13〜15/


3 統計によると、1週間1日も休まずに働いている人は、1週間に1日休んで働いている人に比べて病気にかかる確率が6倍も高いそうです。休むことは健康に生きる秘訣になります。休むことは、社会福祉が発達してできた制度ではなく、神様が人のために制定された制度です。パリサイ人の安息日の規定違反だという筋違いの批判に、イエス様が引用された出来事はどんなことですか。それは、どういうことを意味していましたか。
・25〜26節/


4 大祭司は祭司以外に食べてはならない供え物用のパンを、飢えていたダビデとその一行を助けるために、彼らに与えました。イエス様は、ダビデの話を思い出させて、どんなことに気付かせようとされたのですか。
・27節/


5 安息日は、人が休むための手段であって目的ではありません。安息日の目的は、人が仕事から解放されて休み、神に礼拝をささげることにあります。安息日のために人が設けられたわけではありません。パリサイ人の安息日規定は、主客転倒、人の生活のための手段でなければならないことが目的になっていたのです。いつのまにか、こんな愚かな姿になりました。私たち自身にも、何か目的と手段が逆転していることはありませんか。



6 安息日は人を生かすためのものです。結局、イエス様とパリサイ人では、安息日の見方が違いました。重労働を一日休めさせてくれる日として、弱い者を精神的に保護するものとして与えられた規定です。これが、神様の御旨でした。しかし、御言葉を学んだパリサイ人は、自分たちの熱心だけが強調され、人々をあわれんでくださった神様の御心を忘れてしまいました。あなたは、どんな心で御言葉を見て、聞いていますか。



7 「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません」とイエス様は宣言されましたが、もう一つ安息日について宣言されておられます。何と言われましたか。なぜ、日曜日が安息日となったのでしょうか。
・28節/
・マタイ28:1,6/

8 私たちの罪の代わりに十字架にかかられ、私たちの主イエス様が復活された勝利の記念として、日曜日を安息日とし、神様を礼拝するようになりました。主日に経済活動と労働を休むのは、神様に愛され、守られて6日間熱心に仕事しても、主日には、教会に来て礼拝ささげ、霊肉ともに癒され、霊的命が豊かにされ、霊的力を満たされるためです。あなたの主の日は、どうですか。どのようになっていますか。
・エレミヤ31:25/
・イザヤ40:29/

9 イエス様は安息日の主です。今まで悩んで葛藤していたことにイエス様を当てはめてみましょう。イエス様は、自分のビジネスの主人であり、私たちの家庭の主人です。イエス様は、私の心配の所有者であり、私の健康の主人です。「イエス様は私の〜の主である」に何を入れますか。


「命の実を刈り取ろう」

人は、体の休みと共に、心の休息を必要としています。主の日は、神との関係を回復して、癒しと心の平安を得る祝福の日です。貪欲で無秩序に生活のバランスを失ったことを悔い改めて、神の力と知恵で充電され、新たな活力を得て、新たな一週間を開始する恵みの日です。今日の学びを通して、示されたこと、決意したことを分かち合い、祈りましょう。マタイ11:28

戻る