小グループで聖書を学ぶ

21 信仰をもって聞く(マルコ4:21〜25)

「心の門を開いて」

 「アウトサイド・インではなく、インサイド・アウト」という言葉があります。外(環境)が自分の運命を握っているのではなく、内(自分の心)がそれを握っているという意味です。同じ環境でも、それを見る心でまったく違ってくるということです。同じ御言葉を聞いても、それを聞く心で信仰の実りはまったく違って来ます。2つの例えから学びます。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 聞いた御言葉は、何に例えられていますか。この例えでは、それがどのようにならなければならないと言っていることになりますか。
・詩篇119:105/
・21節/

2 枡の下や寝台の下に置かないで、燭台に置くようにというのは、あかりを受けた者は、あかりを他の人にも照らすようにということです。すなわち、聞いた御言葉を証しするようになるということです。イエス様の救いの教え、福音を受けた者の責任性を言っているのですが、これについて、旧約聖書ではどのように言っていますか。
・エゼキエル33:6〜8/


3 福音は聞くことで終わるのではなく、あかりが四方に広がるように、福音は証しされ、拡張されて行くものです。イエス様は、私たちがどのような人として、証しの生活をするように求められておられますか。
・マタイ5:14〜16/


4 二つ目の例えは、何を教えているものですか。内容を分かり易く説明してください。このことがマイナスに働くと、どのようになりますか。引用箇所を参照しましょう。
・24節,ルカ6:38/
・マタイ7:1〜3/

5 人には、各自の量り、尺度があります。その量りで、他の人を評価したり、自分自身を評価することもします。問題は、人々が自分を判断する基準と他の人を判断する基準は、同じではないということです。人を批判したり、人を悪く評価すると、後には自分も同じように批判を受け、悪く評価されるようになります。マタイ7:1〜3の例えのように裁き合ったり、互いの量りの違いで躓いたりしたことがありませんか。



6 セルグループの学びでは、人の話を聞く時は、「自分のものさしを一時脇に置く」ということを学びます。自分の物差し、価値観は、生きて行くのに大切なものです。でも、それで人を躓かせ、傷を受け、裁いてしまいます。ですから、自分の物差し、価値観は、脇に置いて、人のことを聞く、相手のことを白紙の状態で聞くということを学びます。この学びからあなたの思うことは、何ですか。



7 25節の言うことは、信仰というものが、用いるならばもっと大きくなり、信仰を用いないで置くならばなくなってしまうものだと教えています。25節の背景となる言葉が、有名なタラントの例えです。なぜ、1タラントを受けた人は、地に埋めてしまったのでしょうか。考えられる理由をあげてみてください。
・25節/
・マタイ25:24〜29/

8 結局この2つの例え話は、何を強調したものですか。何が重要だと教えていることなのですか。繰り返し言われていることに注目しましょう。
・23〜24節前半/


9 私たちが御言葉を聞く時、自然に無意識にしていることがあります。それは、慰めや励ましを受けたい、自分の思いに合う御言葉を聞きたいということです。誰しもする当たり前のことです。別に問題はありません。しかし、自分の求めに合わなければ、聞き流すのでしょうか。心に留めないのでしょうか。御言葉は、私たちの心のいろいろな考えやはかりごとを判別させてくれます。痛いところも突いて、心がどんな状態か気付かせてくれます。御言葉を読んで聞きながら、そのような経験をされたことがありますか。
・ヘブル4:12〜13/

「命の実を刈り取ろう」

 失楽園で有名なジョン・ミルトンは、「地獄が天国となるも、天国が地獄となるも心しだい」と言いました。同じ環境でも、それを見る心でまったく違ってくるということです。御言葉を聞く心に注意してください。御言葉を聞く心が私たちを変えてくださるのです。自分の心はどのような土地でしたか。御言葉を聞いて、ある人は心に刻まれ、信仰の成長に大きな助けを得るけれども、ある人は、同じ御言葉に傷つき、躓きます。神の御前で自分がどんな心かが問題なのです。今日の学びで気付かされたこと、適用に導かれたことを分かち合い、祈りましょう。ルカ8:15。

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