小グループで聖書を学ぶ
25 ぶれない信仰(マルコ5:21〜24,35〜43)

「心の門を開いて」

 種蒔きの例えに、いばらの中に落ちた種は、世の心遣いや富の惑わし、欲が御言葉をふさぐとありました。マルコ4:19。信仰の生涯は、順風満帆とは行きません。様々な問題や病気、惑わしが、私たちの信仰を揺さぶります。揺れ動き、時には倒れ、信仰がないかのようになってしまいます。ですから、今日の箇所からぶれない信仰について学びます。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 今日の箇所は、会堂管理者ヤイロという人が登場します。当時ユダヤ社会では、村ごとに会堂が置かれ、そこで礼拝や宗教的行事が行われ、そこは学校や裁判所の役割も果たしました。会堂管理者は、人々から尊敬を受ける宗教的社会的指導者でした。彼は、どうしてイエス様のところに来たのですか。その頼み方はどうですか。
・22〜23節/
・/

2 ヤイロは、イエス様なら娘を治してくださると信じて、来たようです。パリサイ人や律法学者といった宗教指導者は、イエス様を妬み、憎んでいました。宗教指導者層に属していた会堂管理者がイエス様のところに来たら、どうなる恐れがありますか。この場には大勢の人々がいました。ヤイロの体面や世間体は、どうなっていたと思われますか。



3 私たちは、体面を重んじる社会の中にいます。面目、世間体ということが人々の心を支配し、言動を左右しています。メンツ丸つぶれだ、プライドが傷付いたと怒ります。あなたはどうですか。体面、体裁、世間体を重んじるあまり、心とは違う言動になったり、周りの人を犠牲にしていないでしょうか。体面のために信仰で生きることができなかったり、世間体のために信仰を明らかにしないこともあります。どうですか。



4 ヤイロは、娘のために、体面もプライドも社会的体裁も捨てて、イエス様に懇願しました。会堂管理者である体面やプライドを置いて、イエス様を信じて、み前にひれ伏しました。これが、絶望的な問題が解決される糸口となりました。イエス様がヤイロの家に行ってくださることになりましたが、長血の女のことで中断や停滞を余儀なくされました。その間のヤイロの心境を想像してみてください。
・25〜27節/
・Tサムエル1:6〜7,ヨブ20:2/

5 私たちの人生でも、中断や停滞が生じ、妨害や邪魔が入ります。あなたは、どんなことでイライラし、どんな時に苛立ちましたか。



6 祈っているのに、どうして問題は停滞したままなのか。信仰をもって頑張っているのに、なぜ中断してしまうのか。私たちも、苛立ち、憤慨することがあるでしょう。文句を言い、怒り出すかもしれません。ヤイロは、そうしてはいません。この時ヤイロにどんな知らせが届きましたか。そのために、ヤイロの心情はどうなったと思われますか。なぜ、彼の信仰はぶれなかったのですか。
・35節/
・36節/

7 ヤイロは、恐れていたし、一瞬信仰は揺れたのでしょう。でも、「恐れないで、ただ信じていなさい」というイエス様の言葉が、彼の心を持ち堪えさせてくれました。私たちが、中断や停滞で憤慨したり、失望する時、この「恐れないで、ただ信じていなさい」というイエス様の声を聞く必要があります。重要なことは、イエス様が一緒におられることです。今、イエス様と一緒にいると意識していますか。どんな時、この言葉を心に聞きましたか。
・ヨシュア1:9/


8 イエス様は、この社会的宗教的体面や世間体を乗り越えて、イエス様を信じるようになったヤイロが、どんな状況でもその信仰がぶれないように、励ましてくださいました。そして、イエス様はどうしてくださいましたか。
・41〜42節/


9 イエス様は、ヤイロの娘について、「死んだのではない。眠っているのです」と言われました。「眠っている」というのは、再び目覚めることです。私たちは、確かに地上の生涯を終えて死にますが、天国で再び目覚めるのです。死は、私たちの人生の終わりではなく、永遠の命への関門です。なぜ、そのような恵みを受けることができるのですか。
・39〜40節, ヨハネ11:25/

「命の実を刈り取ろう」

 私たちの信仰はどうでしょう。私たちも、時には揺れるでしょう。恐れ、絶望して、へたり込む時があるでしょう。しかし、私たちが恐れと失望を感じながらも、主の恵みとあわれみを求めるなら、主は、ヤイロのように私たちをぶれない信仰へと導いてくださいます。きょうの学びで与えられた適用や恵み、励ましを分かち合い、互いのために祈りましょう。

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