小グループで聖書を学ぶ

26 偏見から信頼へ(マルコ6:1〜6)

「心の門を開いて」

 「知ってるつもり、無知の科学」という本によれば、知っているつもりで知らない「知識の錯覚」が、不合理な判断や行動というかたちで危険な影響をもたらすと言っています。きょうの箇所は、イエス様が郷里に行かれた時の出来事です。知っているつもりから起こった出来事を通して、恵みを無にしてしまうものについて学びます。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 イエス様が故郷のナザレに来られた時のことです。ナザレの会堂で、イエス様の話を聞いた故郷の人々の反応は、どうでしたか。
・1〜3節/


2 ナザレの人々は、イエス様の知恵の言葉や力ある御業に驚いたにもかかわらず、イエス様に躓き、イエス様を信じませんでした。人々は、イエス様の故郷での30年間を知っていました。イエス様の誕生と成長、家族関係と仕事、すべてを知っていました。彼らの目には、イエス様は自分たちと同じような平凡な人でした。結局、故郷の人々は、何にこだわっていたから、イエス様に躓いたのですか。
・3節/
・Tコリント6:11/

3 ナザレの人々は、自分たちが知っているイエス様の過去の姿にこだわって、現在の驚くべき教えと御業をなされるイエス様を信じませんでした。私たちがイエス様の十字架を信じたゆえに、神様は私たちの過去を問題になさらず、罪を赦して、救ってくださいました。あなたは、問題や人の過去の姿にこだわって、現在の変えられた姿を受け入れられないということはありませんか。



4 ナザレの人々は、「この人は大工ではないか、マリヤの子ではないか」と言って、イエス様を認めませんでした。ここには、彼らのどういう思いが入っていますか。弟子ナタナエルがイエス様を否んだ言い方は、どういう理由からですか。
・ヨハネ1:46/
・Tテモテ5:21/

5 故郷ナザレの人々は、せっかくイエス様の知恵や力あるわざに驚きながら、偏見や先入観のためにイエス様を認めませんでした。私たちも、あまりにも多くの偏見にとらわれ、先入観から人や出来事に対して勘違いをし、誤った判断をしやすいです。どんなことがありましたか。偏見や先入観の例をあげてみてください。



6 ナザレの人々は、自分たちと同じような者と思っていたイエス様が、絶大な人気と尊敬を得ていたニュースを聞いてどんな思いを持ったでしょうか。どんな思いが生じたために、故郷の人々はイエス様を認めず、退けたのですか。
・マタイ27:18/
・ヤコブ3:14/

7 知らない人であれば妬みも起こらなかったでしょうが、昔からイエス様を知っていたナザレの人々は、絶大な人気と尊敬を得ていたイエス様に対して妬み、嫉妬を持つようになりました。私たちにも、妬みの思いが生じて、人を認めることができず、敵対心を持つことがあります。どんな時に、妬みや嫉妬心が生じましたか。



8 私たちは、周りの人々がイエス様を信じてほしいと願い、祈っています。あなたの周りの人々がイエス様を受け入れられないのは、ナザレの人々の理由の内どれだと思いますか。その他にあるとしたら、どんなことですか。互いに話し合ってみましょう。



9 結局、ナザレの人々は、イエス様を知らないのに、知っているかのように錯覚して、躓いて、イエス様を受け入れませんでした。故郷の人々が、過去へのこだわりや偏見、妬みによってイエス様を退けた結果、どうなりましたか。この結果を読んで、どう思いましたか。
・5〜6節/


「命の実を刈り取ろう」

ナザレの人々の姿を学ぶ時、最終的には、主を信頼していないことが、究極的な問題であると悟ることができます。神様に信頼し、感謝し、神様との正しい関係になることから平安が来ます。恵みがなかったから、躓いたと言い訳することはできません。彼らが驚くほどの教えや御業を行われたからです。「今は恵みの時、今は救いの日です」という御言葉は、福音を聞いた誰にでも適用されます。私たちのために十字架にかかってくださった主を悲しませることのないように、救いの恵みに応答したいものです。今日の学びを通して与えられた適用を分かち合い、互いのために祈りましょう。Uコリント6:2。

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