小グループで聖書を学ぶ

30 しっかりしなさい、わたしだ(マルコ6:45〜56)

「心の門を開いて」

 私たちは、どんな時にイエス様がともにいてほしいでしょうか。かりに、そのような時、イエス様がともにおられることをどれだけ意識しているでしょうか。はなはだ心許無いのではないでしょうか。どうしてそうなのでしょう。今日の箇所の弟子たちとイエス様の姿を通して学び、考えましょう。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 この箇所は、5千人の給食の奇跡の直後、イエス様が、群衆を解散させ、弟子たちを先に向こう岸に行かせて、ご自分だけ山に行って祈っておられた場面です。そこで、イエス様は、どんな祈りをしておられたと想像できるでしょうか。
・45〜46節/
・ローマ8:34, ヘブル7:25/

2 主は、ご自分を求め、拠り頼む者のために祈っておられます。聖徒たちの人生は、問題だらけであり、私たちは恐れや不安をかかえながら問題と取り組み、倦み疲れるからです。弟子たちに訪れた患難、問題は、何でしょう。それは、4章の激しい突風とはどんな違いがありますか。
・47〜48節/
・マルコ4:36〜37/

3 「向かい風」は、弟子たちが取り組めるが長い時間がかかり、沈む心配はないが舟は進みません。向かい風は、長い期間私たちを苦しめる問題です。「あぐねている」と訳された言葉は、「拷問する」という意味にも使われています。それだけ、頑張って取り組み続けているけれども、苦しみが続くという人生の問題をあらわしているようです。あなたにとって、このような向かい風はどんなことですか。
・詩篇6:2〜3/


4 このような弟子たちのことをイエス様はよくご存知です。一緒に拷問を受けておられる心境で祈られます。イエス様は、私たちを責め立てる罪のために十字架にかかってくださいました。弟子たちのために祈っておられたイエス様は、弟子たちが長い時間舟を漕ぎあぐねているのをご覧になって、どうしてくださいましたか。それに対して、弟子たちはどんな反応をしましたか。
・48〜49節/

5 奇跡を起こしてまで、弟子たちのところに来られたのに、弟子たちは、「幽霊だ」と声をあげ、恐れたというのです。どうして、そんな反応になってしまったのでしょうか。激しい突風のような問題の時は、どう反応するでしょうか。激しい突風と比べて考えてみましょう。
・イザヤ10:13/


6 船が沈みそうな嵐で藁をもすがる思いであったなら、たとえイエス様の幻が見えても、喜んで助けてと叫ぶでしょう。自分たちの力で取り組める向かい風だったために、イエス様に拠り頼もうという信仰がありませんでした。彼らの心にイエス様がいなくなっていました。向かい風のような人生の問題に対して、イエス様を忘れて、イエス様を求めないで、自分の力で悪戦苦闘していませんか。


7 イエス様を幽霊だと恐れていた弟子たちに対して、イエス様は何と言って励まされましたか。イエス様が弟子たちと一緒になった時、どうなりましたか。
・50〜51節/


8 群衆は、弟子たちほどイエス様のことをしりませんが、イエス様を発見した時どんな反応をしましたか。その後、5千人の給食を通して、イエス様が世に来られるべき預言者だと知って王にしようとしました。主に拠り頼む姿勢は、弟子たちと比べてどうですか。
・53〜56節/
・ヨハネ6:14〜15/

9 ドイツのルューベック大聖堂にある800年前の碑文です。「こうして、私たちの主なるキリストは、私たちに語ります。あなたは私を主と呼びながら従わない、あなたは私を光と言いながら見ない。あなたは私を道と呼びながら歩まない。あなたは私を命と呼びながら頼らない。あなたは私を知恵と呼びながら学ばない。あなたは私を公正と呼びながら愛さない。あなたは私を高潔と呼びながら仕えない。あなたは私を永遠と呼びながら求めない。あなたは私を義なる方と呼びながら恐れない」今あなたにとって、イエス様は確かに共におられるお方ですか。それともぼんやりとした幻のようですか。イエス様は、あなたにとって拠り頼むべきお方ですか。それとも、幽霊のような存在ですか。この碑文を読んでどう思いましたか。


「命の実を刈り取ろう」

 イエス様は、向かい風を避けるために祈っておられるのではなく、私たちが向かい風に耐えるように祈っておられます。向かい風の中で労苦する時、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われるイエス様の御声を聞ければ幸いです。今日の箇所から受けた導きと適用と分かち合って、互いのために祈りましょう。

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