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34 あわれみ深いイエス様(マルコ8:1〜10)

「心の門を開いて」

 イエス様を信じて救われた者は、罪赦されて天国へ行けるようになっただけでなく、イエス様に似て行くように成長することを求められています。今日の箇所から、イエス様がどんな心を持たれて、どんな見方をされるのかを学びましょう。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 6章の五千人の給食に似ていますが、今日の箇所は、ユダヤ人ではなく、デカポリスという異邦人対象です。また、6章では、弟子たちがイエス様に、群衆を解散させて、めいめいで食べ物を買うようにと頼んだことから始まっていますが、今日の箇所は、イエス様から群衆の食事について言い出されています。この時のイエス様の態度と群衆の態度に注目しましょう。どんな特徴がありますか。
・1〜3節/
・マルコ6:34/

2 群衆は、遠くからも集まって来て、三日間もイエス様と一緒にいて熱心に御言葉を聞きました。イエス様も、熱心に御言葉を教えてくださり、空腹の群衆をあわれんでくださいました。「かわいそうに」とは、激しくあわれみを感じたという意味です。神様の私たちへの愛とあわれみが最もあらわれているのは、どこですか。
・ヨハネ3:16/
・ローマ5:8/

3 私たちが生きていれば、様々な理由で様々な問題に出会い、様々な不足を感じます。世の人々は、そのような時落胆したり、失望したりします。私たちは、そんな時、何が必要ですか。どうすればいいでしょうか。
・マタイ14:14/
・マタイ15:22/

4 「かわいそうに、この群衆はもう三日間もわたしといっしょにいて、食べる物を持っていないのです」というイエス様のあわれみを聞いた弟子たちは、どのように反応しましたか。あなたは、この反応をどう思われますか。「へんぴな所」とは、他の箇所では、荒野と訳されている言葉です。民が「荒野」と聞いたら、何を思い出すでしょうか。そして、食べ物に関して、思い出すべきことは、どんなことですか。
・4節/
・出エジプト16:12,35/

5 自分の先祖たちが荒野を旅しながらマナを食べたことを知っているにも関わらず、こんな荒野で食べ物を得られるのだろうかと言うのです。五千人の給食の奇跡を体験していながら、こんな荒野では何も得られないと否定するのです。これは、弟子たちだけの頑なさではありません。このような弟子たちの姿を学びながら、私たちも同じように言っていないでしょうか。
・出エジプト17:3/
・ヤコブ5:9,ピリピ2:14/

6 4節と5節を比べてみてください。弟子たちは、どんな視点で状況を見ていますか。イエス様の視点は、どこにありますか。引用箇所も参考にしましょう。
・4〜5節/
・民数記13:30〜33/

7 荒野で食べ物を得られない、人々の空腹を満たすことができないという弟子たちは、否定的、悲観的見方であり、「ない」ことに視点がありました。イエス様の視点は、パンはどれだけありますかという見方であり、パンが「ある」ことに視点があります。人が何かを見る心の窓をフレームと言います。考え方とか価値観とも言います。行動心理学では、ある特定のフレームを用いて現実(意思決定問題)を見ることをフレミングと言います。私たちは、イエス様の視点、御言葉の価値観というフレームから物事を見ているでしょうか。それとも、肉の思いや世の風潮などという別のフレームで意思決定をしていますか。
・Tヨハネ2:16/


8 イエス様は、パンと魚を裂き、弟子たちに配らせたので、群衆は食べて満腹になりました。この4千人の給食は、何から始まっていますか。弟子たちは、どうしたのですか。どう用いられたのですか。
・5〜7節/


9 今度は、弟子たちが自分たちの持っていたわずかなパンと魚を差し出しました。イエス様は、弟子たちに配らせました。私たちが受ける信仰の恵みは、分け与えると増えます。イエス様は、私たちが同じようにあわれみを覚え、人々に仕えることを願われます。あなたは、どんなことで人々に仕え、人々を助けることができますか。差し出すことができるものは、何ですか。


「命の実を刈り取ろう」

 イエス様を信じて救われた者は、神を愛し、人々を愛して生きて行く者となります。人は人のために生きてこそ、救われた者としての生きがいがあります。何でもいい、どんなことでもいい、祈ることだけでもいいから人の役に立ち、人に仕え、人を助けて生きると、神の栄光をあらわし、救いの恵みに応えて生きることになります。今日の学びを通して与えられた適用を分かち合い、互いのために祈りましょう。

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