小グループで聖書を学ぶ
36 あなたはわたしを誰だと言いますか(マルコ8:22〜30)

「心の門を開いて」

 弟子たちは、イエス様に従って来た素直な人々でしたが、イエス様からしばしば嘆かれ、呆れられることがありました。その時は、イエス様の言われること行われることの意味が分らなかったからです。しかし、今日の箇所では、よく理解して、大事な告白をするようになります。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 イエス様がベツサイダというガリラヤ湖畔の町に来ると、人々が一人の目の見えない人を連れて来ました。イエス様は、その目の見えない人を村外れに連れて行き、癒しを行われました。この時の癒しには、特徴があります。イエス様は、お言葉一つで癒せるのに、この人の癒しを段階的にしています。御言葉で確かめましょう。
・22〜25節/
・/

2 最初の段階では、何かがぼんやりと見えているという程度です。その知識は明らかではありません。勘違いもしています。人は、ものごとをかすかに認識するだけに留まっています。ぼんやりと知っているが、その本質は判らないままで過ごしています。当然、勘違いも起き、危険な状態になります。このようなことは、私たちのどんなことに当てはまりますか。知っているつもりが、勘違いや葛藤を生じさせることはありませんか。



3 2番目の段階では、この人がよく見つめていると、すべてのものがはっきり見えるようになりました。23〜25節には、実に「見る」という4種類の動詞が計6回も使われています。最初は、ぼんやり見えるようになり、それで自分でもよく見るようになり、識別でき、最後には、はっきり見えるようになりました。「見るということが」弟子たちへの強烈な喚起となっています。どういう目的があると思いますか。
・マルコ8:17〜18/


4 このように段階を踏んで、「見える」という動詞を繰り返し使われたことで、鈍感な弟子たちも気付くようになりました。自分たちがイエス様の本質を見ていなかった、イエス様の言われたことを見ようとしていなかったことを悟るようになりました。あなたにも、そのような経験がありますか。
・Tコリント13:12/

5 今日、イエス様を信じたという人々のどれほどが、キリスト教の真理を知っているでしょうか。イエス様が救い主であることをどれだけ確信しているでしょうか。果たして福音をしっかり握っているのでしょうか。イエス様は、自信を持っていたラオデキヤの教会に何と言われましたか。自分たちが物事を分っている、よく見えているというパリサイ人のことを何と言われましたか。これを読んで、あなたが感じたことは何ですか。
・黙示録3:17〜18/
・ヨハネ9:40〜41/

6 イエス様に出会っていなければ、癒しを受ける前の人のようで、霊的にはどんな状態なのですか。イエス様に出会うとどのようになるのですか。
・詩篇82:5/
・使徒26:18/

7 暗闇の罪の中を歩んで、さまよっていた者も、イエス様に出会い見えなかった心の目が見えるようになります。しかし、ある時期は、ぼやけてはっきりしないでしょう。私たちは、イエス様とともに新しい命の世界を歩み出すことが必要です。イエス様は、目の見えない人の癒しを通して、目が開かれ悟るようになった弟子たちに、どんな質問をされましたか。弟子たちは、何と答えましたか。
・27〜29節/


8 「人々は、わたしを誰と言うか」、「あなたはわたしを誰と言うか」という質問は、重要な意味を持っています。私たちの世界観を聞いていることになるからです。人々が言うのは、時代の流れです。私たちの時代の流れとは、様々な価値観が交錯する多元主義の世界であり、相対主義の価値観です。その中で生きるクリスチャンは、どんな葛藤や影響を受け易いと思いますか。



9 イエス様の神性を認めたという点で、イエス様を偉大な人間だと考えた群衆の告白と、弟子ペテロの告白はまったく違います。私たちも、「私はイエス様をどんなお方だと信じているのか」を真実に告白して行く必要があります。確かな告白をした者に、どんな祝福を与えると約束しておられますか。
・マタイ16:16〜19/

「命の実を刈り取ろう」

私たちも、「あなたは、わたしを誰だと言いますか」という問に、「イエス様は私の救い主です」と告白して、真実な聖書の価値観に生きたいのです。これが、私たちの強固な信念であり、教会の土台です。イエス様との深い精神的な交わりが信頼を導きます。きょうの学びを通して与えられた適用を分かち合い、互いのために祈りましょう。エペソ1:18〜19。

戻る