小グループで聖書を学ぶ

37 わたしについて来たいなら(マルコ8:31〜38)

「心の門を開いて」

 クリスチャンは、どんな生き方をするのでしょう。イエス様の弟子としての人生は、どんな生活なのでしょう。弟子たちは、分かっていませんでした。私たちはどうでしょう。イエス様が教えてくださいます。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 ペテロの信仰告白に感激されたイエス様は、ご自分の使命について、はじめて弟子たちに教えられました。どういう内容ですか。
・31節/


2 イエス様が世に来られた目的である十字架と復活のことを教え始められました。これを聞いてびっくりした弟子ペテロは、どんな態度を取りましたか。どんなことをイエス様に言いましたか。どうしてペテロは、そのようなことを言ったと思いますか。ペテロの態度や言葉をどう思いますか。
・32節/
・マタイ16:22/

3 ペテロの言い分は、イエス様のことを思いやっている弟子という感じです。しかし、自分たちにとって、キリストの存在は、イスラエル王国復興の希望でした。苦しみ死なれるキリストなど、弟子たちには想像できないことでした。そんなペテロに対して、イエス様は、驚くべき言葉を発せられました。なぜ、ペテロをそのように呼ばれたのですか。イエス様の指摘されたことは、どういう意味なのですか。
・33節/


4 人間的に見たときに、イエス様の死を否定することは弟子として当然なのですが、神中心で見るならば、イエス様の使命をじゃまするサタンの道具なのです。私たちも、信仰生活において、「神のことを思わないで、人のことを思っている」ことがしばしばあります。神のことよりも、人のことを心に置き、神の栄光よりも、自分の評判や安全などに心を注ぐことが多いです。何か思い当たることはありますか。



5 私たちは、どのような生活をするべきなのでしょうか。キリストを告白する人が取るべき原理原則と方向があります。イエス様の教えてくださったことは、どんなことですか。それについて、どんな印象を持ちましたか。
・34節/


6 自分を捨てる(原文では「自分を否定する」)ということは、自分の人生の目的が、自分自身であるという考えをやめることです。人生の原則と目的を神中心に確立することであり、何でも自分中心という自分を否定することです。もし私たちが、肉の思いで自己中心のまま世で生きて行く時、結局どのようになりますか。



7 イエス様について行くということは、自分を否定して、日々自分に死んで行くことを言います。なぜなら、イエス様を信じた聖徒は、十字架にすでに死んだからです。古い人自分は、すでに十字架に死んだからです。古い肉の自分が、まだ死んでいないことに気付かされることは、どんなことですか。
・ガラテヤ2:20/


8 世の価値観の中で生きている者にとって、自分を捨て、自分の十字架を負って付いて来なさいと言われたなら、自分がなくなるだけで、そんなの認められないと思うでしょう。そこで、イエス様は、それは反対だと教えてくださいました。どんな表現ですか。キーワードは、何ですか。
・35〜36節/


9 「いのち」という原語は、英語では ソウルと訳されるもので、魂という意味です。したがって、この「いのち」は、肉体の命ではなく、天国での永遠の命を意味しています。この天国へのいのちは、どうしたら得ることができるのですか。このたましいのいのちを捨てる人がいます。どんな人ですか。
・37節, Tテモテ2:6/
・38節/

「命の実を刈り取ろう」

 いつから自分を捨て、自分の十字架を背負って行くのでしょうか。「捨てる」も「負う」も、文法的には、今から直ちにしなさいという命令形です。自分の考えに都合よくなる時まで待つのではなく、この御言葉を学んだ瞬間から、今すぐに、自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエス様に従って行くことを開始するのです。私たちの生活の現場で、少しずつ実践して行くのです。きょうの学びを通して与えられた決意や受けた導きを分かち合い、互いのために祈りましょう。

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