小グループで聖書を学ぶ
38 変貌の山(マルコ9:1〜13)

「心の門を開いて」

 人は変化を嫌うものです。ある名言では、「自我は変化を嫌うから、人生を変えたいと言いつつも、実際の生活に変化を取り入れない」と言います。変わろうとしなかったペテロの姿から学び、私たち自身を顧みましょう。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 「それから六日たって」と記されていますが、イエス様の死と復活を聞いたペテロは、イエス様が殺されれば、自分たちがイエス様について来た意味がなくなってしまうと反対しました。そのために、イエス様は、3人の弟子をある高い山に連れて行って、そこで偉大な光景を見せました。どんな所でどのようなことが起こりましたか。
・マタイ16:21〜23/
・2〜4節/

2 イエス様が変貌し、そこにエリヤとモーセが現れて、イエス様と語り合ったというのです。モーセは、律法の代表、エリヤは預言者の代表ということでしょう。それによって、イエス様が旧約聖書の律法と預言の成就者として来られたことが示されています。このような素晴らしい場面にいたら、あなたはどうしますか。弟子ペテロは、どうしましたか。
・5節/


3 なぜペテロは、幕屋、テント、仮小屋などを作りたいと言ったのでしょうか。建物を建てるのは、どういう目的があるのですか。イエス様の十字架と死に反対したペテロがこの素晴らしい光景を目にしたら、どうしたいと思うでしょうか。



4 ペテロは、イエス様が死ねば、つき従って来た自分たちの犠牲や労苦が何の意味もなくなってしまうと不安と恐れを感じました。素晴らしい光景を見たペテロは、自分もイエス様もこのままここにいた方がいいと思い、幕屋を建てたいと思ったようです。ペテロは、自分の思いに合わないと、イエス様の十字架への道を妨げようとしました。自分の判断領域でのみイエス様を信じようとしました。あなたの中にペテロ的な部分はありませんか。



5 イエス様は、「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と言われました。しかし、イエス様がついて来るように求めても、私たちは、平安を享受している場から降りることや、十字架を負って付いて行くことを躊躇するのです。そのような時、それぞれの幕屋を作ろうとします。自分の願いと夢の幕屋を作り、その夢と願いに留まろうとするのです。それは、どんなことですか。
・マルコ8:34/


6 人は、自分の生活が変化するのをあまり好まないでしょう。その生活、その環境を享受しているなら、なおのこと変化を嫌います。その幸せや楽しみに留まりたい、慣れた生活を変えたくないからです。信仰の父と呼ばれるアブラハムの神様の召しへの応答と動向を参照してみましょう。気付いたことや感じたことは、なんですか。
・創世記11:31,12:1,4/
・ヘブル11:8〜9/

7 変貌の山では、一瞬に光景が変わり、神様の声がありました。それは、弟子たちにどのような思いを持たせるためですか。
・7〜8節/


8 イエス様は、弟子たちとともに山を降り始めました。神様の栄光の出来事を味わったとしても、そこから降りなければなりません。弟子たちこそ、変貌の山での栄光の経験によって、信仰の変化、霊的変化を体験して、山を下りなければなりませんでした。なぜですか。山の下では、どんなことが起こって、弟子たちの状態はどうだったのですか。
・9節/
・マルコ9:14〜18/

9 ペテロは、変貌の山にいる間、山の下で他の弟子たちが苦しんでいることなど考えもしませんでした。私たちが、恵みの生活を享受している時、周りの人々がどのようになっているか、苦しんでいないか考えてみる必要があります。あなたが恵みの御座から下りて行くべき所とは、どんな所ですか。どう用いられるのですか。


「命の実を刈り取ろう」

 恵みの座から降りて、現実の問題が山積している家庭や職場や学校が、私たちが生きて行くべき人生の現場です。ですから、恵みの御座で霊的取り扱いを受け、御言葉で養われ、私たちも変化するのです。霊的造り変えを受け、変貌するのです。私たちは、幕屋を作ると言った時のペテロの段階を超える必要があります。いつも自分の利益の次元でのみイエス様を求めようとしたペテロの姿から変化するのです。私たちにも、変貌の山の経験が必要です。学びを通して与えられた適用を分かち合い、互いのために祈りましょう。Uコリント5:17。

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