小グループで聖書を学ぶ
39 自信喪失と責任の重圧の中で(マルコ9:14〜29)

「心の門を開いて」

 人は、心配も問題もなく生きることを願います。しかし、人生は問題だらけです。自分の力ではできない無力感や人と比べて生じる劣等感にさいなまれ、責任感や要求の重圧に押しつぶされそうになります。今日の箇所に出て来る人を通して、そのような中でどう生きるのか聖書の教えを学び、私たちへの適用としましょう。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 イエス様が3人の弟子と共に、変貌の山から降りて来ると、残っていた弟子たちには、問題が起こっていました。どんなことでしたか。その時、弟子たちの心境はどうですか。
・14〜18節/


2 悪霊を追い出すことができなかった失望感、取り囲む人々から受ける期待の重圧、律法学者から糾弾、ふもとに残っていた弟子たちは、窮地に追い込まれていました。私たちも、問題や仕事などにおいて、失望感や責任の重圧で心が萎えてしまうことがあります。失敗した挫折感、できない無力感、責任の重圧感、責める声、そんなことに囲まれたら、どうですか。経験した時どうでしたか。



3 弟子たちは、伝道実習に出た時、イエス様から悪霊を追い出す権限を付与されて、癒しも悪霊追い出しもできました。なぜ、今回できなかったのでしょうか。イエス様に同行できず、ふもとに残された9人の弟子たちの心情を想像してみましょう。
・Tコリント3:3/
・ヤコブ3;15,16/

4 残された弟子たちは、イエス様に同行した3人と比較して、妬みを持ったでしょう。当然、彼らの心に疎外感と劣等感が生じました。その結果、群集に良い所を見せようと、自分の力で悪霊を追い出そうとやっきになったでしょう。人は誰でも、状況によっては劣等感や疎外感を抱くものです。人格が劣っているのでもなければ、無能な者でもありません。ただ、人と比べて劣等感を抱いて肉の思いでしたために、できなかったのです。この弟子たちの姿を見て、どんなことを感じますか。



5 弟子たちの所に息子を連れて来た父親も、痛みと苦しみを持っていた人でした。どんな心の痛みを持っていましたか。
・20〜21節/

6 この人の息子の症状は、常に痛みを伴うものでした。しかし、父親は、自分の力でどうすることもできません。人々が人生を歩む中での大きな痛みは、苦しい問題を持っているが、それを自分の力で解決できないことです。自分にそのことの解決の責任があるならば、余計に辛く、苦しいのです。私たちは、家庭や職場、学校や地域などの様々の場で責任を持つ場合、経験することでしょう。どんなことがありましたか。



7 人は、自分の能力ではできないとなれば、誰かの助けを受けようとします。その結果によっては、別な苦痛も伴います。どんな苦痛や失望ですか。
・17〜18節/
・マルコ5:25〜26/

8 人に助けを求めれば求めるほど、助けてもらえない時、失望することになります。救いを求める人が尋ねて行く所は、イエス様です。誰からもどんな助けも得られなかった父親が最後にたどり着いたのが、イエス様でした。助けを求める父親に対して、イエス様は何と答えましたか。それは、何を期待したものですか。
・22〜23節/


9 父親は、自分の不信仰に気付かされ、改めて信仰をもってお願いしました。助けを求めながら、信じていなかったのです。これを聞いていた弟子たちは、どうして自分たちは、悪霊を追い出すことができなかったのかと尋ねます。それに対して、イエス様は、何と答えられましたか。それは、どういう意味ですか。
・28〜29節/
・19節/

10 弟子たちは、劣等感と疎外感でイエス様への信仰がなくなっていました。私たちは、元々その罪のために神様から離れて、望みのない者でありました。そのような私たちが、どうして神様に祈り、助けを求めることができるようになったのですか。
・エペソ2:12〜13/
・マタイ11:28/

「命の実を刈り取ろう」

 弟子たちも父親も、信じていたのに、不信仰でした。私たちは、自分のために十字架にかかってくださったイエス様を救い主と信じました。でも、本当にイエス様を信頼しているでしょうか。イエス様を信頼し、イエス様につながりながら、問題や責任に取り組みましょう。きょう与えられた導きや適用を分かち合い、祈りましょう。ヨハネ15:5。

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