小グループで聖書を学ぶ
40 皆に仕える者になりなさい(マルコ9:30〜37)

「心の門を開いて」

 今日、過酷な競争社会になっています。世界では、競争で勝って高い位置を維持して行くことを目的としています。共生、共存が提唱されていながら、人々は、他と我を比較して妬み、競争しています。そして、人々は、倦み疲れ、疲弊しています。聖書は、そんな人の姿の原因を見せ、どう生きるべきかを教えています。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 世はなぜ、過酷な競争をし続け、人と比較して妬み、争うことを続けているのでしょうか。福音を知らないからです。福音とは、何ですか。イエス様は誰のために十字架にかかられたのですか。
・31〜32節/
・ヨハネ3:16/

2 人々は、競争社会の中で頑張り続け、傷付いています。認められようとして努力をし、業績をあげるために無理を強いられたりします。人々は、そういうことで悩み、倦み疲れています。あなたも、そういう経験がありますか。



3 イエス様を私たちの身代わりに十字架に渡されるほど私たちは愛されています。はじめから神の愛の中で、高価で尊いと認められています。この救いの恵みに与っているなら、どのように生きるようになりますか。
・イザヤ43:4/
・Uコリント1:12,Tコリント15:10/

4 弟子たちが、イエス様の十字架の予告を受け入れられず、質問さえできなかったのは、ほかの関心事でいっぱいだったからです。彼らは変貌の山のことも引きずっていたようです。どんなことで頭がいっぱいになり、どうしていたのですか。
・33〜34節/


5 イエス様が十字架の道を歩もうとされていたのに、弟子たちは他者と地位や名誉を比べて争っていました。私たちも、人の先に立ちたい、人より評価されたい、人に認められたいという思いがないでしょうか。認められないと憤慨しませんか。頑張ったのに誉められなければ面白くないと思わないですか。人を妬んだり、憎らしいと思ったりしたことはありませんか。
・Tコリント3:3/


6 この競争社会の中で生きる私たちは、弟子たちを他人事と見ることはできません。そんな私たちに、イエス様は、主の弟子が世の中でどう生きるのかを教えてくださいました。イエス様は、「おすわりになり、十二弟子を呼んで言われた」というように、大事なこととして教えてくださいました。それは、どういう生き方ですか。
・35節/


7 いつも、イエス様はご自分を見本として示してくださいます。イエス様はどうするために世に来られたと言っておられますか。「みなのしんがりとなり、みなに仕える者になりなさい」と言われたイエス様自身、どのような姿になられましたか。
・マタイ20:28/
・ピリピ2:5〜8/

8 理屈は分るけれども、ずっと仕えて、低くなっていることはできないと思われるでしょうか。結局、イエス様はどうなりましたか。同じように仕える私たちは、どのようにされると約束されていますか。
・ピリピ2:9/
・Tペテロ5:6/

9 イエス様は、幼子を使ってどのようなことを言われましたか。それは、どういうことですか。この幼子は、どのような人のことですか。
・36〜37節/


10 古代社会の子ども観は、労働力とならない厄介者、役に立たない者という評価です。世話ばかりかける厄介者、そんな者を受け入れ、仕えなさいと言われたわけです。自己中心的な幼稚な者と出くわした時、イエス様の御名によって受け入れることができるでしょうか。最期の審判の例えにも出て来ます。そこを参照して、感じることや思うことを分かち合ってみましょう。
・マタイ25:40,45/

「命の実を刈り取ろう」

 結局は、人を受け入れ、仕えることが、私たちの主を愛することであり、神を愛する方法なのです。もし「皆に仕える者」というアイデンティティーを持って生きるなら、周りの人々の中に子どものような姿を発見したとしても、以前とは違って来るはずです。イエス様の御名によって受け入れ、仕えることとなります。へりくだって、皆に仕える者が、主の祝福を受けて高くされ、主の恵みを受けて事をなすことができます。学んで与えられた導きを分かち合い、互いのために祈りましょう。Tペテロ5:6。

戻る