小グループで聖書を学ぶ
 主の苦しみは我がためなり(マタイ27:38〜46)

「心の門を開いて」

 「叫び」という有名な絵は、ムンクが、ある日の夕方、急に空が異様な色になり、不安を覚え、自然の叫びを感じたことがモチーフとなったそうです。十字架上でイエス様が叫ばれました。そのイエス様の叫びから、受難週のメッセージを聞きましょう。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 イエス様が十字架につけられる場面ですが、鞭や十字架のむごたらしさより、他のことが記されています。この場面に登場している人々は、イエス様に対してどうしていますか。共通していることは、何ですか。
・39〜44節/
・詩篇35:15〜16/

2 民衆の人気を奪われたエルサレムの権威者たちは、イエス様に対して妬み、敵対し、憎みました。イエス様の働きを分かっていながら、わざと心を傷つけるような言い方をしています。自分のしていることを否定され、皮肉られるのは、辛いことです。そんな例をあげてみましょう。



3 専門家は、いじめる側の心理について、葛藤や不安から逃れたい「防衛規制」のメカニズムを働かせていると言います。いじめは、他の人への怒りを「置き換え」たり、劣等感を他の人への優越感で補おうとする「補償」として行っていると言っています。イエス様と何の関係もない強盗や道行く人々が、イエス様をからかい、ののしる姿は、罪の姿そのものです。まるでイエス様をいじめているようです。イエス様は、このような人々の姿のために、どうしてくださったのですか。
・Uコリント5:21/
・イザヤ53:6/

4 私たちも、ののしりやあざけりを受けることがあります。プライドが傷つき、心は痛みます。体の痛みは一時的ですが、心の痛みはずっと残ります。でも、私たちのために十字架にかかり、ののしられて、あざけられたイエス様の姿を思う時、私たちは、どんな思いになりますか。
・Tペテロ2:23/(参考)
・詩篇147:3/(参考)

5 イエス様が十字架で苦しみ、正午から午後3時まで、その苦痛が最も大きくなった瞬間、どんなことが起こりましたか。それは、どんなことをあらわしていたのですか。
・45節/
・出エジプト10:22,ヨハネ1:5/

6 なぜ、人の心に闇がはびこるのでしょう。どうして、心が暗いままなのでしょう。罪のために肉の欲のまま、自分中心に生きようとして、罪にとらわれるならば、心は暗くなるのです。人々は、心の傷の回復や環境の改善などを好みますが、罪という言葉には嫌悪感を持っています。罪に捕らわれ暗やみに住む人生から解放されるには、どうしなければなりませんか。
・マタイ4:16〜17/
・Tヨハネ1:9/

7 その白昼の暗やみの中で、イエス様は大声で叫ばれました。どんな叫びですか。その叫びの意味するところは何ですか。なぜ、叫ばれたのですか。
・46節/
・ルカ17:25/

8 イエス様は、ホサナと歓迎していた民衆から見捨てられ、愛する弟子たちからも裏切られ、捨てられました。そして、神から見捨てられました。だから、叫ばずにはいられませんでした。痛みの中で最も大きな痛みは、肉体の痛みでも、侮辱を聞く痛みでもなく、見捨てられることの痛みです。人が見捨てられた時の孤独と悲しみと喪失の痛みは、どれほど大きいことでしょうか。十字架のイエス様は何を与えてくださったのですか。
・イザヤ53:4〜5/
・Tペテロ2:24/

9 イエス様は、私たちの罪の身代わりとなって神に見捨てられ、十字架にかかられました。ダビデは、詩篇の中でイエス様と同じ叫びをあげていますが、その後どうなりましたか。それは、私たちに、どういうことを教えていますか。
・詩篇22:1〜5/
・Uコリント4:8〜10/

「命の実を刈り取ろう」

 見捨てられる経験は、自分の存在の根幹が揺らぐ苦しい経験です。捨てられる時経験することは、関係が断たれる断絶感です。見捨てられるなら、行き場がなくなり、心の孤独と漂流が始まります。しかし、神は捨てられた人々を用いました。ヨセフ、モーセ、ダビデ、パウロも人々から見捨てられました。神に用いられた人は、かつて捨てられた人です。見捨てられた人は、見捨てられた人々の痛みや苦しみをよく知っているからです。そして、神の愛を受ける者が、神の愛を伝えることができます。今週は、受難週です。「主の苦しみは、我がためなり」と賛美し、イエス様の十字架を黙想して過ごしましょう。与えられた適用を分かち合い、互いのために祈りましょう。

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