小グループで聖書を学ぶ

4.謗りと嘲りの中で(詩篇44:13〜26)

「心の門を開いて」
 
 イエス様は私たちを救うために苦しみを受けられました。私たちの身代わりの受難は、鞭打ちや十字架という肉体的な痛み、苦しみばかりでなく、人々から多くの罵りやあざけりを受け、精神的な苦難を受けられました。私たちが人生の中でそのような苦難を味わうからです。詩篇の中から、私たちへのメッセージを学びます。

「御言葉の種を蒔こう」

1 私たちは、周りの人々から認められ、いつも愛と尊敬を受けていられたらどんなに良いかと思います。しかし、中々そうは行きません。戦いに負けて捕虜となり、奴隷となった神の民は、かの地でどんな仕打ちを受けましたか。受けた者の心情はどうでしょう。
・13~16節/


2 捕虜となり、奴隷となった彼らは、多くの侮辱やあざけりを受けました。私たちも、神の民となった瞬間から、周りの人々のそしりとあざけりの対象となるということを聖書は教えています。その箇所を読んで、その理由を考えてみまでしょう。
・Uテモテ3:12/
・マタイ5:11~12/

3 理由の一つは、信じた者の人生観や価値観、考えや行動が理解できないからです。人々の幸福は、富とか権力とか名声などという世のものを多く握り、自分の肉の思いのまま生きることです。ところが、目に見えない神様に従い、その御心を求めて生きるクリスチャンは、信じない人にとっては、非現実的な愚か者と見え、物笑いの種とするのです。クリスチャンとしての生き方をあざけられたことがありますか。



4 二つ目は、世の人々にとって都合の悪い存在と映るからです。損と見えることも受け止め、自分たちと同じように悪口を言ったり悪意を持たったりしない、神の民の姿は、富を求め欲のまま生きる者にとってはどうも都合が悪い。自分の方の旗色が悪くなるので、そしり、あざけるようになります。正しい、罪のないイエス様が、どうされましたか。
・Tペテロ2:22~23/


5 三つ目に、人々の心の中にある心の傷や要塞のように築かれた憎しみ怒りが、捕虜や奴隷のような無抵抗の者にぶつけられるからです。(ヘブル12:15,Uコリント10:4)彼らの心の痛みや憎しみの直接の原因ではないのに、ぶつけるのです。悲しいことに、私たちも人々からこのような辱めや罵りを受けるこことがしばしばあります。そしりや嘲りを浴びせる者だけでなく、私たち自身にも、心の傷や要塞のように築かれた憎しみ怒りがあります。イエス様を罵り、嘲る人々の姿を参考に省みてみましょう。
・ルカ23:21~23/
・マタイ27:39~42/

6 人は、わけもなく中傷や誹謗を浴びせられたら、どうなるでしょうか。心が乱れ、痛み、ますます落ち込み、心痛め、怒りや憎しみさえ生じて来るでしょう。私たちもそうされたら、心が動揺し、反発や対抗までするかもしれません。でも、その場合、事態はさらに悪化するでしょう。捕虜として、多くのそしり、あざけり、ののしりを受けた彼らはどうだったでしょうか。私たちは、どのようにしたら、悪化することから守られますか。
・17~18節/
・Tペテロ2:21~24/

7 聖徒たちの捕虜や奴隷としての姿は、人の目から見れば、最も哀れで惨めな姿に見えたことでしょう。その聖徒たちの苦難は、どんなものに喩えられていますか。謗りや嘲りが続いている間、どんな心情でしたか。
・19,22節,詩篇53:7~8/
・23~25節/

8 神の民は、苦難の中で、神様からの慰めと哀れみを受けます。イエス様の十字架への姿は、哀れで惨めで、愚かな姿に見えたことでしょう。しかし、それが、人々の救いの御業となりました。Tペテロ2:24。真実な中でそしりとあざけりを受けても、凛としている姿は、その地の人々への証しとなりました。あなたの思うところ分かち合ってください。



「命の実を刈り取ろう」

 私には分らなくても神様はご存知だという信仰が、艱難の中で私たちを支えます。神様は、苦難に会っている聖徒たちに御顔を隠されることはありません。なぜなら、私たちが受けるすべての苦難をイエス様が受けられたからです。イエス様は、私たちが受けるすべてのそしりと嘲り、ののしりと侮辱を受けられ、十字架にかかられ、私たちの贖い主となられました。私たちは、どうすることができるのですか。
・26節/

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