小グループで聖書を学ぶ

1.感謝のいけにえをささげる人(詩篇50:1〜23)

「心の門を開いて」
 
 IT用語で、幾つかの動作が繰り返されることを無限ループと言います。聖書の士師記に、無限ループに陥っている神の民が描かれています。士師記3:7〜12。@自分勝手に歩む⇒A困難が起こる(外敵が来る)⇒B主感謝のいけにえをささげるに助け求める⇒C士師が立てられ、助けられる⇒D穏やかな日が続く⇒@自分勝手に歩む。詩人の時代の神の民も、礼拝をささげているのに、この無限ループに陥っていました。神様が、この無限ループから神の民を引き上げようと語られます。

「御言葉の種を蒔こう」

1 自分勝手に歩み、空しい自分教の無限ループに陥ってしまうクリスチャンは、実に多いのです。そこで、ご自分の民を愛される神様は、無限ループに陥っていた神の民を救うために、裁判に喩えておられます。裁判に召喚されている被告はだれですか。裁判官、証人、は、それぞれどうですか。
・1〜6節/


2 裁判の主題は、どういうことですか。
・6節/
・U列王記18:12/

3 私たちに与えられた契約は何ですか。私たちも、主の前に呼び出されています。あなたは、その契約を覚えていますか。
・マタイ26:28/
・Uコリント11:25~27/

4 誤った民の考えを正そうというのが、裁判官である神様の御旨です。どんな御心ですか。神の民の考えは何が間違っていますか。
・7〜8節/
・9〜13節/

5 神の民の思い違いは、「これだけあげて、礼拝して、祈っているのだから、願った通りにしてくれ」ということだったようです。いけにえは、民の罪の赦しを求める身代わりでした。神様がいけにえの動物そのものを求めたわけではありません。無限ループに陥っていた民には、大事なことが欠落していました。そこから救い出そうとされる神様の勧告と約束は何ですか。あなたは、どう応えていますか。(参考/ホセア6:6)
・14〜15節/


6 神様に対して心が伴っていなかった神の民は、人に対しても肉の人となっていました。どんな様子になっていますか。御言葉に対しては、どうですか。この神の民の姿を見て、どう思いますか。
・18〜20節/
・16〜17節/

7 「戒めを憎み」というのは、戒めなんかいらない、恵みだけでいい、御言葉の訓練は受けたくない、という姿勢です。「うしろに投げ捨てた」というのは、気に入らない御言葉は、聞きたくないという姿です。これが、無限ループに陥る原因でした。その元になっている人の姿勢は何だと指摘されていますか。思い当たることはないですか。
・21節/
・ハバクク1:11/

8 感謝がない、真実な心からの礼拝がないと、心が荒れ、肉の人となります。罪の考えに囚われ、文句や批判が口から出て来ます。当然、信仰による対処がないため、物事がうまく行かず、困難に対処できません。礼拝はしているのに、御言葉は知っているのに、真実な従順な心が伴わないため、うまく行かない、喜びがないとなります。空しい形だけの信仰は、無限ループに落ちてしまいます。そこから救おうとされる神様は、裁判の結果、どんな言い渡しをされていますか。何を求められていますか。
・22〜23節/
・詩篇103:1~3, Tテサロニケ5:18/

9 なぜ、私たちは感謝できるのですか。なぜ、無罪を言い渡されているのですか。無限ループに落ちてしまわない元はどこにありますか。
・Tテモテ2:6, ローマ3:24/

「命の実を刈り取ろう」

 イエス様の十字架という尊い犠牲によって救われたのに、自分の思いが中心で、自分の望むように神様がしてくれることだけを願い、御言葉に聞き従おうとしない、救いも神様も「忘れる者」となっては、無限ループに落ちたままです。「感謝のいけにえをささげる」これが、神様の勧めです。もう空しい不信仰と罪の無限ループに落ちないように、赦され、救われていることを忘れず、感謝しなさいということです。私たちは、イエス様が十字架という代価を払ってくださったので、罪の囚われから解放され、滅びという裁きを免れ、今新しい命を与えられています。どのように生きようとしますか。Tコリント6:20。

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