小グループで聖書を学ぶ

1.罪から私をきよめてください(詩篇51:1〜9)

「心の門を開いて」
 
 この詩篇は、ダビデの有名な悔い改めの詩篇です。これは、私たちに人の罪の姿と罪を悔い改める人に関する新しい発見を与え、私たち自身の神様への悔い改めの思いをも変えてくれることでしょう。

「御言葉の種を蒔こう」

1 ダビデ王の犯した罪は、到底赦されるべきことではないと人々がいきり立ち、本人も決して赦されないと思うようなものでした。しかし、ダビデは自暴自棄に陥ったり、逃避したりすることなく、自分の罪を指摘された後、神様に祈りました。どんな祈りですか。
・1〜2節/


2 「罪をぬぐい去って、全く洗い去り、きよめてください」とは、その罪を無かったことにしてくれと言うことです。恐ろしい罪を犯した後、減刑してくれとは言えても、罪を無かったことにしろと言えるでしょうか。厚顔無恥なのか、罪を罪とも思わない者なのでしょうか。どうして、ダビデは、そう求めて、祈ることができたのでしょうか。(参考/ホセア2:19〜20)
・U歴代7:14/


3 ダビデはただ、「民が立ち返るなら、赦し、いやそう」という、「神様の御恵みとあわれみ」に訴えていました。神様のあわれみと慈愛に信頼して、罪の赦しを求めました。ダビデは、罪の重荷に沈み込むことなく、罪をそのままにすることもしませんでした。もし人が罪を犯してしまったなら、聖書はどうすべきだと勧めていますか。その後、どんな約束がありますか。なぜ、私たちは、そうされるのですか。
・Tヨハネ1:9/
・エペソ1:7/

4 自分の言動が引き起こした問題、自分の失敗や間違いの結果、自分の欲とわがままがもたらした事件等々で罪を犯して、良心の呵責にさいなまされたり、後悔の念に沈み込んだりすることがなかったでしょうか。



5 ダビデは、ウリヤやバテ・シェバという人に対する罪責感を持ってはいたのですが、この祈りでは、誰に対して罪を犯したと言っています。「そむきの罪」とは、誰に背いているのですか。あなたは、ダビデのような意識がありましたか。
・3〜4節/


6 もちろん、良心の呵責も、人に対して犯した罪の重荷も知っています。ただまず、神様の御前に罪の解決が大事だということです。「私は神様に罪を犯した」という意識を持たないために、罪を隠し続けたり、罪を繰り返してしまうのです。知恵ある態度はどのようなものでしょうか。
・5〜6節/


7 罪は心の中まで腐敗させてしまうものです。神様は「心のうちの真実」を喜ばれます。ダビデは、「罪をぬぐい去って、全く洗い去り、きよめてください」と祈っていましたが、罪を悔い改めて、神様に告白するならば、その罪はどのようにされると描写されていますか。このような罪の赦しの姿を見て思ったことは何ですか。
・イザヤ1:18/


8 7節に、「ヒソプをもって私の罪を除いてきよめてください」という表現があります。ヒソプは聖めの儀式に使われたものですが、ヒソプが登場するところを引くと、どこにつながりますか。
・出エジプト12:21〜23/
・ヘブル9:19〜20, マタイ26:28/

9 イエス様を信じて救われた者は、イエス様の血潮で聖められた者です。ですから、罪を犯したことに留まり、罪意識にさいなまれているなら、イエス様の犠牲を空しくすることになります。私たちも、ダビデのように罪の赦しを懇願し、きよめられた新しい人として生きることができるのです。どんな恵みを受けますか。
・8〜9節/

「命の実を刈り取ろう」

 骨を折られていた状態とは、悔い改める以前のダビデの苦しみ、悩む心をあらわしています。赦しを与えられた後は、神様の恵みと祝福を聞くことができるようになりました。私たちは、イエス様の血潮によってきよめられ、新しく生まれた神の民、聖徒となっていることを感謝し、喜びます。ですから、犯した罪を神様に言い表し、罪の赦しを得て生きたいのです。今日の学びで示され、導かれたことは何ですか。 ローマ8:34。

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