小グループで聖書を学ぶ

63.恐れないところで恐れた(詩篇53:1〜6)

「心の門を開いて」
 
 53篇の背景の一つに、アッシリヤがエルサレムを包囲して、神の民の信じる神様を否定したことがあります。U列王18:28~30。お前たちの神なんて当てにならないぞ、と罵倒したのです。しかし、聖書は、彼らのような者が愚かだと教えています。ここから、聖書的世界観、価値観と生き方を学びましょう。

「御言葉の種を蒔こう」

1 アッシリヤのような者を「愚か者」と言っていますが、知恵や判断力がなくて、愚かだと言うのではありません。なぜ、愚か者と言っていのですか。
・1節前半/


2 この詩篇で言う愚か者の特徴は、「神はいない」と言っていることです。「心の中で」とは、心の中心で言っているということです。すなわち、神を否定する価値観、世界観で生きているということです。つまり、世のものを自分のものに、人生を自分勝手にしたいのです。「神はいない」と考える者の姿は、どうなりますか。(参考/ローマ3:11〜12)
・1節後半/


3 聖書の教える世界観は、この世は神様が創造され、統べ治めておられるというものです。私たちを造られ、命を与えたのも神様です。この世の中のすべてのことは、神様の摂理の中で動いています。神の御子イエス様が私たちを罪と滅びから救うために来られたという明確な御業が示されているのですから、神はいないなどと言うことはできません。人が神様の存在を認めないのはなぜでしょう。あなたは、どう思いますか



4 救いの歴史を通して人々に恵みとあわれみを与えられた神様は、私たち人間に無関心な方ではありません。私たちにどんなことを期待されましたか。(参考/詩篇94:8~9)
・2節/


5 神様は、人が神様を求め、御旨を悟ることを期待されましたが、しかし、そうする者はいませんでした。狼のような愚か者たちが、羊である神の民を痛め付け、踏みにじったのです。神様が愚か者の満ちる世に神様を信じる者、神の民を置かれた理由は、何でしょう。
・3~4節/
・マタイ21:33~43/

6 救いのためのサンプルである神の民を痛め付け、踏みにじったら、救いの道が分からなくなってしまいます。私たち自身は、自分が救いのサンプルとして、そこに置かれている大事な存在なのだ、ということをわきまえつつ、証しの生活をすることが大切です。神様を知らない人々、神様を否定する人々のために、私は地の塩、世の光とされているのだ、ということを意識しておられますか。



7 神様は、サンプルのパンを食べてしまう愚か者、神様を否定する愚か者が、実はどのようになると、警告されますか。(参考/U列王19:35~37, 士師7:22)
・5節/


8 神の民を襲う敵が、しばしば恐れの中で同士討ちをして滅び、敗退することがあります。それは、「恐れのないところで、いかに恐れたか」を示しています。神様を認めない者たちは、恐れるほかありません。神様を否定する者にとって確実なものは何もないからです。あなたは、どんなことで恐れを抱きますか。



9 神様にそむき、神様から離れたら、恐れは増大します。恐れの題材は限りがありません。何をしても、「恐れのないところで、いかに恐れたか」とならざるを得ません。どうしたら、恐れがなくなりますか。
・Tヨハネ4:18/
・箴言1:7/

「命の実を刈り取ろう」

 神様に信頼し、拠り頼む神の民は、一時期は敵の攻撃や困難、病気を恐れるかもしれませんが、イエス様が私の滅びの身代わりとなられた、私の痛み、悲しみ、病をみなその身に負ってくださった、というイエス様の愛に、恐れは締め出されます。恐れるべきは、天地を造り、統べ治めておられる神様です。そうすれば、他のことは恐れる必要はありません。ですから、神に信頼する神の民は「楽しめ、喜べ」と命じられています。そのように生きておられますか。
・6節/

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