小グループで聖書を学ぶ
26 愚か者にならないで(箴言26:1〜28)

「心の門を開いて」

 イエス様は、新しい命を与え、救いのために来られただけではなく、その命を持って豊かな人生を生きるようにとこの世に来てくださいました。救われた私たちは、御言葉を学んで、造り変えられることを望みます。まずは、きょうの箇所を通して、愚か者から知恵ある賢い者に変えられることを学びます。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 今日の箇所の前半(1〜12節)には、繰り返し「愚かな者」と言う言葉が登場しています。2節以外11回です。私たちは、どれほど愚かなのでしょう。人は、自分をどのような者だと思っているのでしょうか。
・12節/
・ローマ1:22/

2 世の多くの人々は、自分を賢い者だと思っているようです。「自分を知恵のある者と思っている人よりも、愚かな者のほうが、まだ望みがある」(12)とは、どういうことなのでしょうか。イエス様の例え話を参照してください。
・ルカ18:9〜14/


3 肉の自信を持って高慢になっている人は、霊的に造り変えられる余地がありません。一方、自分を愚かな者だと思っている者は、造り変えられる望みがあります。パリサイ人は、自分たちのことを知恵のある者、賢い者だと自負していました。彼らは、イエス様が自分たちを愚か者と扱ったので、腹を立てました。そのような者にどう答えればいいですか。箴言は、どうアドバイスしていますか。イエス様の応答はどうでしたか。
・4〜5節/
・ヨハネ8:6〜7,マタイ22:15,21/

4 自分の愚かさを自覚して、御言葉に聞き従う者、霊的造り変えを願う者こそ、自分を賢い者と思っている人より望みがあります。自分には罪がないと言う者は、どうなりますか。自分の罪を言い表し悔い改める者は、どうなりますか。
・Tヨハネ1:8〜9/
・ヨハネ8:41/

5 11節には、面白い表現があります。確かに犬の習慣に、自分が吐いた物に戻って来るようなことがあるようです。人は、自分が吐いた物を舐めたり、食べたりしません。この例えは、何を強調していますか。強調されていることは、社会や自分の生活をみてどう思いますか。
・11節/
・エレミヤ11:10/

6 賢い者と愚かな者の違いは、失敗を通して学ぶか、その失敗を繰り返すかということです。誰でも、失敗や間違いをしてしまいます。ただその時、その失敗や間違いを通して学ぶことが大事です。ビジネスの世界には、失敗学というものがあります。成功の陰には、必ず失敗の資産があります。イエス様の十字架を信じて救われた者は、どうなることができますか。
・Uコリント5:17/
・ヨハネ3:18/

7 心理学者アドラーによれば、過去の出来事は単なる事実に過ぎず、そこに 「どんな意味づけをしたのかによる」と考えます。問題は 「何があったか」 ではなく、「どう解釈したか」なのです。ですから、思考回路そのもの、つまり考え方や価値観を改善しなければならないというのです。愚かさを続けていたら、どうなると言っていますか。それぞれの例えは、何を意味していますか。
・1節/
・8節/

8 夏の雪、刈り入れ時の雨のように、誉れや祝福は愚かな者にふさわしくないと言っています。愚かな者に誉れを与えるのは、石投げ器から石を飛ばすように、他の人の危険となると言うのです。愚かさのゆえに、痛みや問題に出会います。愚かさのゆえに、訪れる問題や患難を的確に受け取れず、賢く対応することができません。御言葉を知っていても、愚かな者にはどうだと言っていますか。
・7節/
・9節/

9 聖書で言う「愚かな者」とは、世で言われるように、知識のない者を言っているのではありません。仮に知識や知恵があったとしても、よく用いられません。愚かな者とは、御言葉の価値観を知らず、神様のなさることを認めない者です。主に拠り頼むことを否定して、自分の知識と知恵と経験に拠り頼んで、肉の思いで判断します。このような愚かな者にならないためには、どうすればよいのですか。
・エペソ5:17, ローマ12:2 /

「命の実を刈り取ろう」

 イエス様を信じて救われているなら、豊かな恵みがあります。祝福を受けられます。イエス様の十字架を信じて、神の民となった者を祝福してくださり、造り変えてくださると約束されています。愚かな者から御言葉に生きる賢い者へと変えられたく願います。学びを通して与えられた気付きや適用を分かち合い、互いのために祈りましょう。

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