小グループで聖書を学ぶ
11 2つの招待(箴言9:1〜18)

「心の門を開いて」

 食事の招待を受けたことがあると思います。そこで重要なのは、食事の内容よりその雰囲気であり、何よりも誰の招待かということです。今日の箇所は、対照的な2つの招待があり、どちらを選択するのかと聞いています。人生は、選択の連続です。どのような選択をしているのか、して行くのか、考えさせてくれる箇所です。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 まず、知恵の招待です。知恵が擬人化されています。女性名詞ですから、知恵という女主人が、食事に招待しているというような設定です。どんな準備がされていますか。招待の対象は、どんな人ですか。求められていることは、何ですか。
・1〜3,5〜6節/
・/

2 知恵の招待は、最高の場所と料理と飲み物が用意され、心の満足、精神的な満たしを目的としたものです。わきまえのない者、思慮に欠けた者が、知恵によって生きるためです。混乱した現代社会の中で、私たちの周りにも様々なことが起こり、多くの悩み苦しみがあります。家庭や職場や学校など生活の現場において、私たちは知恵を必要としています。どんな場面でどんな知恵を必要としていますか。



3 食事の招待は、イエス様が用意される神の国への招待を連想させます。イエス様は、ご自分が天からくだって来た命のパンであると言われました。イエス様の食事の招待は、何を意味していますか。この招待に、どう応じますか。
・マタイ22:2〜4, 黙示録3:20/
・ヨハネ6:51,54/

4 もう1つの招待は、愚かな女の招待です。知恵の女主人とは対照的です。どんなところが違いますか。どんなことを呼びかけていますか。その意味は、どういうことですか。
・13〜17節/


5 愚かな女は、「わきまえのない者、思慮に欠けた者」に変化を求めていません。「わきまえのない者、思慮に欠けた者」のままでいいというのです。なぜなら、そのような人々にとっては、「盗んだ水は甘く、こっそり食べる食べ物はうまい」からです。現代の国際社会では、国も企業も技術や情報を盗み合っています。費用や労力を費やして生み出したものをこっそり盗んで、甘い利益を得ています。愚かな女の招待に応じたら、どうなりますか。肉の感覚や欲の思いを満足させる生き方の先は、どうなると教えていますか。
・18節/
・マタイ7:13/

6 知恵の女の招待を受けた人々には、生活の現場での具体的対応が教えられています。「あざける者」とは、肉のプライドの者、高慢な者、不遜な者という意味です。あざける者は、他人を鋭く批判し、絶えず争いを起こす否定的な人々です。信仰的、道徳的な生活をあざけり、知恵ある者をあざけります。どう対応するように勧められていますか。
・7〜9節/


7 あざける者は、反対に自分が戒めを受けるなら、憤慨し、助言や忠告をする者を攻撃します。あざける者は、頑ななために、戒めをしりぞけ、正しい助言や忠告も受け入れることができません。憎まれ、攻撃されるくらいなら、あざける者を責めるなと知恵はいうのです。そのような否定的な攻撃的な人からは、逃げることが得策だというのです。このような勧めをどう思いますか。イエス様の例えは、何を言っていますか。
・マタイ7:6/


8 助言や忠告は、知恵ある者にしなさいと勧めています。知恵を受け入れる人は、正しいことを知るのを望み、積極的に正しいことを追求するため、自分への助言や忠告を受け入れるからです。私たちは、人の忠告や叱責を聞いて怒り、憎む者でしょうか。それとも、耳に痛くとも聞いて、受け止める賢い者でしょうか。どちらを選択していますか。
・8〜9節/


9 私たちが、人の言葉に反応し、傷つくことがあります。その言葉は、正しい助言や忠告とは限りませんが、それに私たちの肉のプライドが反発し、怒り、心に傷を受けるのです。私たちはあまりにも人の評価に影響されています。私たちを本当に評価してくれるのは、主です。知恵ある対応は、どうしてできるのでしょうか。あなたは、どうしますか。
・10〜12節/

「命の実を刈り取ろう」

 「主を恐れること、聖なる方を知ること」とは、主なる神との人格的な交わりを意味します。知恵の招待に応じて共に食事をするとは、主なる神と人格的な交わりをし、神の知恵を得て生きることです。私たちは、絶えず2つの道の選択に直面しています。御言葉なのか、自分の知恵や力なのか。御言葉に従うのか、自分の肉の思いや欲に従うのか。肉のプライドによって生きるのか、イエス様とともに生きるのか。それは自分の選択なのですから、その結果の責任は、自分自身が負うことになります。知恵ある選択ができることを願います。黙示録3:20。

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