小グループで聖書を学ぶ

20 追放の身から(士師記11:1〜28)

「心の門を開いて」

 悔い改めて助けを求めるギルアデのために、攻撃するアモン人に対し、指導者としてエフタという士師が立てられます。この士師はどんな人だったのか、同胞とどのような関わりをしたのか、敵とどう対応をしたのか、私たちへの適用を求めて学びます。

「御言葉の種を蒔こう」

1 この士師はどんな人だったのですか。彼の生い立ちはどのようなものであったと想像できますか。
・1節/


2 母は遊女、それも偶像の神殿付きだったようです。父ギルアデは、その地名を自分の名とするように、有力者のようでしたが、信仰的ではなかったようです。その生い立ちは、彼を苦しめました。どんな悲劇が起こることになりましたか。
・2節/


3 形ばかりの信仰とは言え、エフタは、父の家で御言葉を聞き、信仰を持ちました。以前学んだアビメレクも、父親は有力者で、母はそばめで異邦人であったために、正妻の子からさげすまれました。そして、兄弟たちを憎んで惨劇を起こしましたが、エフタは、境遇は似ていても、対応は違いました。かれは、どのようにしましたか。それは、どんな意味をあらわしていますか。ダビデの例も参照しましょう。(「ごろつき」と訳されている言葉は、「価値のない者、役に立たない者」という意味です。)
・3節/
・Tサムエル22:1~2/

4 信仰を持っていたエフタのところに、周りから認められず、さげすまれ、困難を持つ人々が集まって来ました。エフタの助けを受け、彼の信仰の影響を受けました。悪い環境でも、信仰を持つなら、御言葉による価値観を身に付けます。生い立ちがすべて人を決めるのではありません。イエス様を信じることで、人は、どう変われるのでしょうか。イエス様の救いは、信じる者に何をもたらしますか。
・Uコリント5:17/
・使徒26:18/

5 自分の生い立ちやこれまでの人生の環境を顧みて、どんな守りや導きを受けたと思いますか。イエス様の救いがどのような変化をもたらしましたか。



6 故郷へ帰る機会がエフタに訪れます。アモン人が攻めて来たので、かしらとなって、ギルアデを助けてくれと頼んできました。ギルアデは、エフタをさげすんで追い出したところです。その要請に対して、エフタは何と答えていますか。喜んでかしらになろうといるのですか。恨みや文句を言っているのですか。あなただったら、どう応じますか。
・5〜7節/


7 これは、恨みを言っているのではなく、ギルアデの長老たちの真意を確かめる質問でした。長老たちがエフタを呼びに来たのは、悔い改めて祈ったことの結果です。長老たちは、自分たちの体面とか権威を捨てて、エフタを呼びに来ています。長老たちは、「それだから」と言って、過去のことを論ずることをせず、今エフタがギルアデを導いて、アモンと戦ってくれることを頼んでいます。エフタも快諾しています。エフタと長老たちの応答と態度を読んで、どんなことを感じますか。(参照/士師10:15)
・8〜9節/


8 士師エフタは、知恵の人でもありました。アモン人と戦う前に、アモン人の王に使者を遣わし、どんな権利があってギルアデを奪おうとするのか、と問いただしています。このエフタの質問に対して、アモン人の王は、何と言っていまか。エフタは、王の誤りをどう指摘していますか。(参考/民数記21:21〜24)
・12〜13節/
・15,23,27節/

9 イスラエルは、エモリ人の王シホンと戦ってギルアデを占領したのであり、アモン人とは戦っていなかった、アモン人の土地も奪っていなかったと明らかにしています。彼らには大義名分がないということです。これは、アモン人が退くことを期待しただけですか。誰に大義名分があるのですか。何のためにこのようなことを言っているのですか。


「命の実を刈り取ろう」

 これは、イスラエルの民に聞かせていることになります。先祖たちが神様の御言葉に聞き従って、信仰で共に行動して、勝利して、この地に住むことになった歴史を思い出させました。今アモン人と戦うのに、信仰に立って、エフタをかしらとして共に戦うために必要なことでした。エフタの人生を通して、不遇な環境からでも信仰によって変わることができ、憎しみや悲観から解放され、望みをもって生き、人々に信仰と知恵をもって仕えることができたことを見て来ました。あなたは、どのようなことに気付かされ、どんな導きを受けましたか。

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