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3 神の言葉に慟哭する民(士師記2:1〜10)

「心の門を開いて」

 神様は、神の民が御言葉から反れてしまう時、人か何かを通して、特別にメッセージをくださいます。約束のカナンの地に入ってから民の信仰が変わり、神様との約束を忘れてしまいました。彼らの信仰が冷えてしまっていた時に、熱さを取り戻させるメッセージが与えられました。

「御言葉の種を蒔こう」

1 はじめに、主の使いが「ギルカルから」来て、イスラエルの民に神様の言葉を伝えています。わざわざ「ギルカルから」ということが記されています。このギルガルという地がどういう地か調べてみましょう。
・1節/
・ヨシュア4:19〜22, 5:9〜12/

2 ギルガルという地は、イスラエルがカナンの地をはじめて踏んだ所、カナン占領の始まりとなった所、エジプトの奴隷、罪の奴隷ではなく、約束の地に入れる神の民と宣言された記念すべき地でした。その地で、民は、神様からどのような約束の御言葉を受け、どんな誓いをしていましたか。6〜7節は、ヨシュア記の回想シーンです。
・ヨシュア24:14〜17/
・6〜7節/

3 約束の地に入った神の民は、このギルガルで、神様の赦しと恵みを覚え、神様に聞き従うことを誓いました。この時の民は、もっとも純粋でもっとも信仰的に熱い時でした。私たちにとってのギルガルは、救われた時、信じ直した時、信仰生活の再出発の時などでしょうか。英語の情熱・エンスージアズムの元は、ギリシャ語のエン・セオス、すなわち「神が心の中に」です。イエス様を信じた私たちには、御霊が内に住んでくださっているので、イエス様の十字架を思えば、私たちの信仰も熱くなるでしょう。あなたのギルガルはどんな時でしたか。あなたの信仰の情熱は今どうですか。(参考/ヨハネ14:16〜17,ルカ24:32)



4 主の使いが、神様の愛と赦しと恵みのあふれた所、民の純粋な情熱的な信仰があふれた所ギルガルからボキム来ました。では、ボキムという地は、どんな地ですか。士師記1章後半も参照してみましょう。
・2節/

5 士師記1章後半で学んだように、今民がいるボキムという地は、不信仰と不従順の地です。彼らは、カナン人の中に住み、急速にカナン化し、偶像礼拝やカナン人の悪しき習慣を行うようになりました。以前の神様の御言葉に聞き従ったあの純粋な情熱的信仰が、失われてしまいました。その結果、どうなってしまうと言っていますか。
・3節/


6 欲心、妥協、恐れなどによってカナン人の中に住んだ神の民は、いつの間にかカナン人の悪しき習慣と偶像礼拝に染まってしまいました。クリスチャンも、世の習慣や価値観の方が、よく見えたり、染まったりして、影響を受け易いものです。肉の思いを満足させることにとらわれると、進むべき道を見失ってしまいます。このような民の姿についてどう思いますか。



7 神様は、立ち返って来ることを望み、御心を痛めながら、このメッセージを送られました。罪の奴隷となって、滅びに向かって虚しく歩む私たちをあわれみ、愛してくださった神様は、イエス様をその身代わりとしてくださったではありませんか。イエス様が私たちの責めをその身に負い、十字架にかかってくださいました。叱責のメッセージを通してこのような神様の愛に気付いた民はどうしましたか。
・4~5節/


8 彼らが慟哭したのは、メッセージを聞いた時、かつての神様の赦しとあわれみ、純粋な情熱的信仰を思いだして、泣きました。不信仰と不従順のゆえに、いつのまにかカナン人の悪しき習慣と偶像礼拝に染まっていたことに気付かされ、声を上げて泣きました。このような涙を流したことはありますか。



「命の実を刈り取ろう」

 自分たちをいさめる神様の御言葉を聞いて、民はギルガルでの恵みの約束を思い出して、泣きました。愛に満ちた叱責の御言葉を聞いて、民の心に信仰のリバイバルの火が灯りました。このメッセージは、私たち自身の姿も省みさせられます。私たちにも、まだ過去の純粋な信仰が残っています。私たちも悔い改めの熱い涙を流し、信仰の情熱を取り戻したいのです。ただ、「その場所の名をボキムと呼んだ」と、慟哭したことだけが記憶されて、町の名として長く使われることはありませんでした。この時民は慟哭しながらも、その後の北部イスラエルの歴史をみると、あまり悔い改めの実がみのることはなかったようです。私たちにとって、この学びが真のボキムとなりますように、どのような悔い改めの実を実らせていきますか。マタイ3:8。

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