小グループで聖書を学ぶ

3 信仰のサイクル(士師記2:11〜23)

「心の門を開いて」

 士師の時代、イスラエルの民の信仰が周期的に変化、すなわち同じサイクルを繰り返すことを見ることができます。これは、神様の哀れみと愛があらわれている所ではありますが、人の肉の性質がどんなに愚かで悲惨なものかがあらわれている所です。私たちに強い印象を与えてくれます。

「御言葉の種を蒔こう」

1 イスラエルの民がカナンに定着して行くと、ほどなくしてどのような状況になりましたか。第一幕をみてみましょう。
・11〜12節/


2 イスラエルの民は、神様の愛とあわれみのうちにカナンの地に入り、定住することができるようになりましたが、その後真の神を棄てて、カナン人の偶像に仕えるようになってしまいました。なぜ、あわれみと慈愛にあふれた神様を、ここまで導いてくださった神様を、カナンの偶像と取り替えてしまったのでしょうか。



3 荒野の放浪はない、水も食べ物もある、もう神様に頼らなくてもいいと思うようになり、民の心が神様から離れました。肉の思いのままにしたいという欲心のために、カナン人の裕福の元のように見えた偶像に仕えるようになりました。今日も、イエス様に救われ、大きな恵みを受けながら、生活が安定すると、肉の自分が中心になり、救いの恵みを忘れ、神様に従う心が薄れ、世の罪の中に戻ってしまう姿があります。そんな状態になったことはありませんか。



4 神様から心が離れて、民が、カナンの偶像に仕えるようになった結果、どうなりましたか。第二幕。
・13〜15節/


5 神様は、民の不信に御心を痛められ、警告された通り周りの民族を用いて民を懲らしめられました。残しておいたカナン人が民の「わな」(3節)となると言われていた通りです。民自身のせいでした。それで、略奪されるようになり、非常に苦しみました。私たちを悩まし、苦しめるようになる「わな」、自分にとって罠となるのは何ですか。



6 私たちも、苦難や問題に悩んだり、人々から攻撃を受けたりする時、自分の姿に気付き、神様から離れていた心が神様に向けられることがあります。御怒りをあらわされたということは、まだ愛しておられる、見捨てておられないということです。第三幕ではどうなりますか。
・16〜18節/


7 神様は、民の信仰の復興のために、苦しみの中から民を救い出すために士師を立ててくださいました。民の受けた苦しみは、ただ彼らの偶像礼拝への懲らしめだけだったのでしょうか。神様が、守り導くという約束を忘れたのでしょうか。民に対する愛がなくなったからなのでしょうか。
・Tコリント11:32/
・ヘブル12:10〜11/

8 民が受けた苦しみは、彼らを助け出すための過程でもありました。罪と背信の民を見捨てていないからこそ、士師を起こして救ってくださいました。しかし、士師が死ぬと、民の姿はどのようになりましたか。第四幕は、どの場面に戻りますか。それは、どういうことを意味していますか。
・19〜21節/


9 民は神様の恵みを忘れ、神様から離れて、また偶像崇拝に戻ってしまいました。クリスチャンの信仰にサイクルがあるようです。しばらく問題がなく安定すると、肉の思いが中心になり、世に戻ってしまいます。そうして人生の荒波の中で迷い、問題に苦しんで、どうしようもなくなって神様を叫び求め、立ち返って行きます。でも、助けられ、救い出されてしばらくすると、肉の自分に戻って行くという悪循環を繰り返して行きます。感じたこと思うところを分かち合いましょう。


「命の実を刈り取ろう」

 イエス様を信じて救われた者は、神様から離れたり、罪と肉の思いに陥ったりしても、困難と悲惨から助け出されます。それは、イエス様の十字架という代価、尊い犠牲が払われているので、神様は何度でも繰り返し私たちを見捨てることなく、苦しみと患難から助け出してくださいます。だからと言って、この民のような負のスパイラルを続けますか。救いの恵みに応えるために、あなたはどのようにして負のスパイラルから抜け出しますか。(参考/Tコリント6:20,ヘブル12:2)

戻る