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6 欠けや弱さを用いられる主(士師記3:12〜30)

「心の門を開いて」

 私たちは、自分自身をどうとらえて、どう見ているのでしょうか。謙遜するのはよいのですが、ことさら自分を卑下し、否定的にとらえ、人の嘲りや蔑みに心沈むということはないでしょうか。士師記の一つの物語が私たちに問いかけて来ます。

「御言葉の種を蒔こう」

1 イスラエルには、一つの霊的病、持病がありました。文字通り、中々治らないで、時々悪化するのです。その持病とは、何でしょうか。
・12〜14節/


2 霊的病とは、しばらく順調で問題もないと、心が神様から離れ、肉の思いで生きるようになることです。試練の中にある時には神様だけ拠り頼んで生きていたけれども、おさまると、そんなに熱心にならなくてもと考えるようです。肉の思いになり、罪や偶像にとらわれます。これは、私たちも持っている持病ではないでしょうか。



3 神の民が神様の恵みを失う時、敵があらわれます。モアブ王エグロンが、イスラエルを攻撃し、なつめやしの町を占領しました。この「なつめやしの町」とはエリコのことです。エリコと言えば、イスラエルのカナン占領の象徴です。それが今は、占領されているのです。苦しんだ民はどうしましたか、神様はどうされましたか。
・15節/


4 神様が立てられた士師は、「左ききのエフデ」という人です。原文の直訳は「右手は制限されている、使えない」つまり、右手が不自由だった、右手に障害があったので、左利きだということです。また、神の民としての自尊心が強いイスラエル人は、異邦人の王に貢物をささげる役などを嫌います。それをエフデはさせられていました。このようなことから考えられるエフデとは、どんな人だと思われますか。



5 エフデは、弱さをかかえ、イスラエルの民の中では、軽んじられた存在であったようです。民は、神様は強くて優秀で完璧な人を用いると思っていたようですが、神様が用いられた救助者は、イスラエルの民やモアブ人から軽んじられていた、弱い存在のエフデでした。神様の人を用いる基準はどうですか。
・Tコリント1:27〜28/
・イザヤ60:22/

6 私たちも、優れた有能な人だけが用いられると思っていませんか。そして、「私なんか」と否定していませか。しかし、神様は、不足した欠けだらけの土の器を用いられ、栄光をあらわされるのです。変な肉の自尊心があると、「こんな仕事なんて、私がどうしてこんなことを」と憤慨し、嫌がったり、つぶやきます。思い違い、悔い改めることはありませんか。(参考/Uコリント4:7)



7 エフデは、嫌がることなく、自分を用いてくださる神様を信頼して、貢物を持ってモアブへ行きました。そこで、どのように策略を実行することができましたか。神様の用い方は絶妙です。特徴はどんなことですか。どうしてエフデが、王に近づいて王を倒すことができたのですか。
・16〜21節/


8 エフデが弱く軽んじられていたことが、有利に働きました。彼は、不自由な体のために、警戒されることなく、王と二人だけとなり、策略を実行することができました。神様は、弱い者を用いて、強い者を倒されたのです。主が彼を勇士とさせました。このエフデの用いられ方を学んで、どんな思いを持ちましたか。(参考/ヨエル3:10, Uコリント4:7)



9 私たちは、このエフデの活躍を見る時、自分には力ない、欠けだらけだと劣等感を持つ必要はありません。人が自分を軽んじて、無視したとしても受け止め、人の嫌がる仕事をさせられてもしっかりやりとげようと思わされます。欠けだらけの土の器である私たちでも、イエス様の福音という宝が入っている土の器です。私たちが立ち上がって、主に用いられて行く時、何が起こって来ますか。エフデの活躍を聞いたイスラエルの民はどうしましたか。
・26〜29節/

「命の実を刈り取ろう」

 神の民は、エフデがモアブ王を倒したと聞いて、集まりました。小さな弱い一人が立ち上がる時、人々が続いて来ます。まず自分が立ち上がることです。エフデは、神の民にとって最も屈辱的な仕事をさせられていましたが、くさったり、悲観したりしないで、立ち上がりました。クリスチャンは、御言葉を聞いて、聖霊に満たされて立ち上がることができます。奇跡は、私たちが信仰で立ち上がる時、起こります。神様が求める人は、他の人が嘲笑い、無視しても、黙々と自分のことをするエフデのような人です。エフデの活躍のメッセージ学んで受けた導きや適用は何ですか。

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