小グループで聖書を学ぶ

17 野望と願い(士師記9:1〜21)

「心の門を開いて」

 イエス様に救われて、クリスチャンになるということは、罪赦されて、新しい命に生きることになるので、その考え方や生き方が霊的に変化します。肉の思いの姿と御霊の思いの姿を、そばめの子アビメレクとギデオンの末っ子ヨタムが見せてくれます。私たちが自分の姿を省みることに導いてくれます。

「御言葉の種を蒔こう」

1 ギデオンは政略結婚などにより、多くの妻と子どもを持ちました。そのことによって、とんでもない惨劇が生じることになりますが、まず誰がどんなことを企てますか。
・1〜2節/
・8:30〜31/

2 アビメレクの母は、シェケムにいたカナン人でした。息子にアビメレク(私の父は王である)という名を付けて育てました。そばめであるために、妻たちから虐げられ、妬みと憎しみを持っていたでしょう。それゆえに、アビメレクも、兄弟たちからのけ者にされ、いじめられ、父の財産を相続することや地位を受け継ぐことでも、差別を受けたことでしょう。その結果、二人にどんな思いが生じたと想像されますか。



3 虐げや差別が妬みや憎しみを生じさせ、報復や争いに向かわせます。これが世の罪の姿です。屈折した思いの母は、息子アビメレクが野望を持つように育て、彼の心にも憎しみや妬みのゆえに野望が膨らみました。この二人の思いと他の妻たち、息子たちの関係を見て、あなたが思うことは何ですか。



4 イスラエルの信仰が退廃して酷い状態になっていなければ、アビメレクが王になろうと考えることすら不可能です。クリスチャンにとって問題は、出来事そのものではなく、信仰状態がよくない場合、出来事が問題化してしまうことです。シェケムの人々は、アビメレクの言葉を聞いて、どう反応しましたか。その結果、どんなことが起こりましたか。
・3〜4節/
・5〜6節/

5 ギデオンの末子ヨタムだけは、アビメレクの惨殺を逃れることができました。兄弟たちが殺されて、アビメレクが王となったということを聞いた時、彼は、そのまま逃亡しないで、シェケムの人々に話ししています。その寓話の意味を考えてみましょう。信仰的な意味は、何ですか。どんなメッセージですか。
・8〜13節/
・ヨハネ4:34, 使徒20:24/

6 木々はそれぞれの働きに集中し、喜びと使命感を感じています。本当に自分の価値を知り、使命を知っている人は、野望など必要ないということです。神の栄光をあらわし、人々に仕えることができれば、本望だということです。私たちは、神様のみこころをなすことが一番の願いです。主婦や職業人、学生として、あなたが抱いている使命観は何ですか。どんなことが人生を生きる願いとなっていますか。



7 人々は、罪赦されて、救われた新しい命に生きるという自分の価値を知らなければ、様々なものを欲しがり、妬み、怒り、野望を抱きます。イバラの寓話は、アビメレクの姿ですが、じつは、私たちもはじめはイバラでした。トゲトゲだらけの自分が人を痛めつけても分からなくて、認めてくれないと怒り、野望を抱いたのです。ただ、イエス様の救いのゆえに、恵みによって造り変えられ、生き方が変えられました。福音によって造り変えられた体験を分かち合いましょう。
・14〜15節/


8 ヨタムは、寓話の後、直接シェケムの人々に語りかけます。どんなことを指摘し、何を勧め、警告していますか。ヨタムは、このような状況で世の人々が持つ思いを抱いていません。どんな思いですか。
・16〜20節/


9 ヨタムは、知恵と信仰をもった人でした。人々を集めて、報復の戦いをすることはしませんでした。まして、アビメレクと王権を競うこともしませんでした。彼は、シェケムの人々を恨んだり、ののしったりすることなく、信仰的な教訓を与えただけで、後は神様に委ねました。このことは、私たちにどんなメッセージを与えていますか。引用聖句を参照しましょう。
・Tペテロ2:21〜25/

「命の実を刈り取ろう」

 イエス様が私の代わりに苦しみを受け、主の打ち傷によって癒された私たちは、もう人を怒り、憎む必要はありません。自分の思うままに生きるよりは、むしろ自分の考えと感情を神様に委ねて、主の御心に忠実な方が、はるかに知恵ある人生です。主の十字架によって救われた私たちは、変えられました。ですから、イエス様の模範に従って、信仰の生涯を歩みます。今日の学びで気付かされたこと、悔い改めたこと、変えようと導かれたことはどんなことですか。

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