小グループで聖書を学ぶ

礼拝し、養われ、遣わされる教会の民(使徒11:19〜26)

「心の門を開いて」
 
 なぜ、教会は存在するのでしょう。聖書をみると、三つの姿が記されています。まず誰でも知っているのは、教会は、「神を礼拝するため」に存在するということです。二つ目として、「この世へ証しのために」教会は存在します。そして、三つ目に、教会は「養育と訓練のために」存在します。教会の存在について学び、心新たに教会形成を担い、礼拝の生活をして行きましょう。

「御言葉の種を蒔こう」

1 アンテオケにどのような人々が来ましたか。彼らは、どうしましたか。
・19~20節。


2 エルサレムからアンテオケに来たクリスチャンの証しによって、その地の人々が救われました。ただし、この人たちは、初めユダヤ人にだけ御言葉を語っていたのであって、異邦人というノンクリスチャンには語りませんでした。どうして、語らなかったのでしょう。彼らが語った時、どうして人々は聞いて、信じるようになりましたか。(参考/ヨハネ19:38,マルコ3:21)
・21節/


3 彼らが福音を宣べ伝えたので、聖霊が人々の心を開き、救いに導いてくださいました。あなたも、聞いてくれないと思ったり、批判や侮りを恐れたりして、証しを躊躇することはないですか。それを乗り越えた例があれば、分かち合いましょう。



4 元々ユダヤ人は、自分たちは特別な神の民だ、という独り善がりの思いがありました。クリスチャンになってからも、自分の救いで満足し、異邦人まで救われなくても、と思っていたようです。ところが、クリスチャンの交わりで満足していたエルサレムから散らされて、アンテオケに避難して来てからは、異邦人にも救いの恵みを分かち合いたくなり、信仰が覚醒し、周りの人々が救われてほしいと願うようになりました。この「散らされて」アンテオケに来たクリスチャンの変化を見て、思うことは何ですか。


5 イエス様の福音を信じて、救われた人々とともにアンケオケ教会が形成されて行きます。彼らは集まって教会で何をしていたのでしょうか。教会の存在の本質は何ですか。
・エペソ1:6,12,14/
・ヨハネ4:23/

6 私たちクリスチャンの生活の中心は礼拝です。主の日にささげられる礼拝が、一週間の生活と活動の中心です。神様の臨在される礼拝に参加するという熱い聖い期待感のゆえに、霊的な力が注がれるようになります。神様の栄光のために生きようとする者たちが礼拝をささげるならば、その礼拝は生きている礼拝、神様の力を体験する礼拝となります。あなたは、どのような思いをもって礼拝に臨んでいますか。礼拝をささげた後、変化を体験しますか。


7 アンテオケ教会では、救われた人々が集まって来ると、バルナバとパウロによって、何が行なわれるようになりましたか。
・22-26節前半/


8 なぜイエス様は、3年もの間ほんの少数の弟子造りにすべての力を注がれたのでしょうか。それは、少数の弟子たちを養育し、訓練して、神の国建設を委ねるためでした。初代教会では、御言葉による養育と訓練が行なわれ、セルグループにおいて信仰の分かち合いと証しがなされました。宗教改革者カルヴァンは、「子供を育てるような教会」と呼び、ました。あなたが、NLS(養育、弟子訓練クラス)やセル(小グループでの学びと交わり)で味わった恵みをいくつか分かち合ってください。


9 実は、クリスチャン(クリステイアノス、キリストに属する者)という呼び名は、このアンテオケで初めて呼ばれるようになりました。どうして、そう呼ばれるようになったと思いますか。
・26節後半/

「命の実を刈り取ろう」

 初代教会では、世から教会に召し集められ、救われた者が、霊と真をもって礼拝をささげ、御言葉によって養育、訓練され、世に遣わされました。そして、遣わされた者の証しを通して人々が救われて、教会に加えられて来ました。これが教会の定義です。イエス様の地上での最後の命令、遺言のような言葉において、イエス様が願われたことは何ですか。これを読んで、どんな導き受け、どう応答しますか。
・マタイ28:19-20/

戻る