小グループで聖書を学ぶ
17 キリスト者と呼ばれた(使徒11:19〜30)

「心の門を開いて」

 何か困難や試練が起こると、マイナスイメージで見てしまいます。悲観的、否定的になります。しかし、御言葉は、「神を愛する人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださる」と約束しています。はじめて異邦人教会ができて行く中で、そのことを見せてくれています。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 異邦人教会ができることになったのは、どこでどういうことが行なわれるようになったからですか。そのことが起こるきっかけとなった事件はどういうことですか。
・19〜20節/
・使徒8:1/

2 迫害によってエルサレムから散らされた聖徒たちのうち、アンテオケで、ギリシヤ人にもイエス様のことを語るようになりました。迫害によって散らされたということは、大変辛く悲しい、不安な状況です。新しい所で生きて行かなければなりません。そのような中で、彼らはどうして、異邦人にまで福音を語るようになったと思いますか。
・/
・/

3 うまく事が運び、願う通りになれば、信仰に生きるようになり、信仰が成長するとは限りません。かえって、患難に会って信仰に目覚め、苦しい中で信仰に生きるようになることがあります。私たちに起こる理解できない苦難や問題の中で、どういうことを覚える必要がありますか。
・Uコリント4:8〜9/
・ローマ8:28/

4 患難や試練という出来事は、かえって信仰が変えられ、霊的に成長する機会ともなります。ですから、酷い目にあった、望みもないと落胆するよりは、神は私を救うためにイエス様を十字架に渡されたのだから、見捨てない、すべてのことを益としてくださると信じるのです。それは、アンテオケの聖徒たちの場合にもあきらかです。何があったと言われていますか。
・申命記31:8/
・21節/

5 患難の中で、主に信頼し続けたから、主の御手が彼らとともにあったのです。困難や試練の中にある時の私たちも、そうではありませんか。アンテオケでの素晴らしいニュースを聞いたエルサレムの使徒たちは、どうしましたか。その結果、どうなりましたか。
・22〜24節/
・/

6 バルナバによって聖徒たちは慰めと励ましを受け、アンテオケ教会はますます大きくなりました。そうすると、バルナバ1人で奉仕することは、困難になって来ました。教会を整えるには、御言葉の養育が必要だと悟らされました。そこで、バルナバは、サウロを思い出しました。サウロは、どうしていましたか。なぜ、そこにいたのでしょうか。
・25節/
・使徒9:29〜30/

7 その時はバルナバの助けによって、聖徒たちの仲間入りができたのですが、活躍できませんでした。殺害計画のために、故郷タルソに逃れていました。そのまま挫折して引きこもっていたようです。私たちも、挫折を味わい、引き下がる時があるでしょう。左遷され、仕事が干される時もあるでしょう。人から認められない、評価されない、そんな思いに沈む時があるでしょう。そんな時、どんなことを思うべきですか。
・Tペテロ4:10/
・ローマ8:28/

8 バルナバは、引きこもっていたサウロをアンテオケで一緒に奉仕させました。エルサレムでのように、あれこれ言う人はいません。命をねらう人もいません。安心して活躍できる所です。そもそも、異邦人宣教は、イエス様からの使命でした。パウロが用いられる時がこの時であり、用いられる場所がアンテオケだったのです。誰にも、主の時と主の場所があるのです。あなたにとって主の時と主の場所となったのは、どういうことでしたか。
・イザヤ27:6,60:22/
・/

9 バルナバとサウロは、1年間アンテオケで大勢の人たちを教えました。それは、まさに御言葉の養育、弟子訓練です。霊的にも成長したアンテオケ教会は、飢饉の時、どんなことをするまでになりましたか。アンテオケの人々から何と呼ばれるようになりましたか。その呼び名の意味することは、どのようなことだと思いますか。
・ 28〜30節, 26節/

「命の実を刈り取ろう」

 原語クリスティアノスとは、キリストに属する者、キリストの追従者という意味です。聖徒たちが、いつもキリストだけのことを考えて、キリストのために働き、いつもキリストに従い、キリスト中心の生活を送っていたからです。クリスチャンと呼ばれる始まりは、聖徒たちが迫害によって散らされ、痛みや不安の中から主に信頼することからでした。失望落胆して引きこもっていたサウロが奉仕したからでした。私たちも、苦難や試練を信仰で乗り越えて、彼らのようにクリスチャンと呼ばれたく願います。学びを通して与えられた適用や導きを分かち合い、互いのために祈りましょう。ローマ8:28。

戻る