小グループで聖書を学ぶ

23 神の恵みにとどまって(使徒13:26〜43)

「心の門を開いて」

 私たちが信仰者として生きて行くのに必要なことは、主の恵みを覚えて応答しているかにかかっています。ですから、主の恵みをどれほど受けているか、いや恵みを知っているかが重要になって来ます。ピシデヤのアンテオケの会堂に集まっていた人々の姿を通して学びます。

「御言葉の種を蒔きながら」

1 ピシデヤのアンテオケの会堂に集まっていた人々を前に、使徒パウロが福音を語りはじめました。この人たちは、毎週安息日ごとに会堂に集まって旧約聖書の御言葉を聞いていたのですが、どのように聞いていましたか。問題があったと考えられますか。
・26〜27節/


2 彼らは、旧約聖書全体が来るべき救い主、イエス様について預言されているのに、救い主についてはまったく知りませんでした。救いの言葉が自分たちに送られていることを自覚していなかったのです。そこで、パウロはイエス様の死と復活について説明して行くのですが、繰り返し強調していることは何ですか。
・27,29,34〜35節/
・イザヤ53:3〜7/

3 人々は、御言葉を安息日ごとにただ聞いていただけに過ぎなかったのですが、イエス様を通して成し遂げられたことを知ることができました。御言葉が自分たちに語られていたことが分かりました。どれほど衝撃的だったことでしょうか。毎週私たちが聞く御言葉もまた、私たちへ語られたものです。どのような気持ちになりますか。御言葉をどのように聞くようになりますか。
・イザヤ50:4/(参考)


4 パウロは、旧約聖書に記されたことは、イエス様の十字架の死と復活を指し示したことであり、約束の成就であることを語った後、聞いている人々に何を知らせていますか。
・38〜39節/


5 今パウロの説教を聞いている人々の罪の赦しが、イエス様の十字架の死と復活によって与えられると宣言しています。38節の「解放」は、原語では「赦し」つまり、「義とされる」ということです。罪の赦し、イエス様を信じる信仰によって義とされることがなぜ「解放」なのですか。会堂にいた人々は、律法を学んで、重んじていましたが…。
・ローマ3:20,24/
・ローマ8:2/

6 律法を重んじていた人々は、律法で正しいことが示されていても、守れないことを知るばかり、罪があることを知るだけでした。努力すればするほど絶望感に陥ったり、守れない自分を責めたりしました。あなたは、そういう状態の時がありませんでしたか。イエス様を信じることで義とされる、罪の赦しを知って、解放された思いがありましたか。



7 救いの恵みが素晴らしいだけに、これを無視することがどれほどむなしいことであり、自分のために十字架で死なれた救い主を拒むことがどれほど愚かなことでしょうか。パウロはそれを教えるために、主に聞き従わずにバビロンに滅ぼされた南ユダ王の例を引用しました。その後、救いの御言葉を聞いた人々は、どう反応しましたか。
・40〜41節,/
・42節/

8 彼らは、今まで聞いて来た御言葉が、救いの御言葉であり、救い主を教えていたことが分かり、イエス様の十字架の死と復活を信じることで罪の赦しを得、罪と滅びから解放されることが分かりました。彼らは深い感動を覚え、次の安息日にも話してほしいとお願いしました。そんな彼らに、パウロは、どんなことを勧めましたか。それは、なぜですか。
・43節/


9 パウロは、彼らが救いの御言葉を聞いて喜んでも、一時的な感情にとどまらないように、いつまでも神の恵みにとどまっているように勧めました。では、神の恵みに留まり続けるためには、信仰生活をどのようにしていけばいいのですか。あなたはどうされますか。思うことを分かち合ってください。
・詩篇119:18,24,105/(参考)
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「命の実を刈り取ろう」

 信仰の恵みを持続して味わう生活は、神の御言葉に着実に養われて生きることによります。御言葉を自分への言葉として聞いて、自分の生活と人生に適用して、御言葉に応答して生きて行く生活です。信仰生活とは、御言葉を食べて、御言葉に応答して生きて行くことです。御言葉を聞いて、黙想して適用の導きを受け、それに従うことです。御言葉を聞いたなら、受けた恵みに応答して生きる一人ひとりとなりますように願います。今日の学びを通して導かれたこと決心したことを分かち合い、互いのために祈りましょう。

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